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2009年12月13日 (日)

五木の子守唄

――沈没阻止に人生を賭けた人――

23. 判決の三日前、和解成立……戦いは終わった
 五十九年四月。
 福岡高裁控訴審判決の日が間近に迫った。
 結果は火を見るより明らかである。熊本地裁の一審判決と変わらぬ結果に終るに違いない。それでは今迄の努力が水の泡である。

 田山さん達は急転、和解に持ち込む事にした。県は、村の再建計画費用の村負担分、三十三億円の内十七億円を引き受ける、という条件を出した。
 田山さん達は、それ位の金で村の再建が叶わない事を良く知っていた。ダム建設に伴う、環境整備費用程度なのである。
 要するに、国は村人を村外に追い出せば良いのである。
 田山さん達は最後の粘りを見せた。食い下がりに食い下がった。そして、判決の三日前、遂に和解が成立した。
 原告と九地権が交わした確認書の第五項に、
“残村水没者の生活再建については、最大限の努力をする”という、極めて曖昧な、抽象的な事項を組み入れる事に成功したのが、唯一の戦果であった。
 戦いは終わった。故郷を捨て、東京へ出た筈の身が、故郷に帰る事を余儀なくされ、骨を埋めようと決心した矢先に、今度はその土地の追い出しに遭(あ)う。
 そうはさせじと懸命に反対し、遂にはその旗をも降ろす羽目になって了った、田山さん。
 戦う事も、再建の目度も立たない五木村に居て、五十代の田山さんはこれから何う生きて行くのだろうか……。過疎化が進み、仲の良かった隣人や友人が居なくなった今、何を生甲斐に、何を目的に生きて行くのであろうか……。

 翌朝。食事を済まし、旅館のロビーで何気なく新聞に目を遣っていた私は、突然、ショックを受けた。そこには、“五木村の老人、遺書を残して失踪”と、有ったのである。此の老人は、人吉に移住した娘に宛てて
“詰まらなくなった。此の土地を離れる気も無いし、動ける間に自分の始末をする”といった類の書き置きをして、行方を消(くらま)したのである。屹度、山奥の誰にも探(み)つからない処に、死に場所を求めたのであろう……           つづく。

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