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2009年12月 5日 (土)

五木の子守唄

――沈没阻止に人生を賭けた人――

15. 観光立村の企画に賛同する人は一人も居なかった
 家業を継ぐ事を余儀なくされた田山さんの前途は、決して明るくなかった。いきなり難題を抱える事になったのである。それは、村全体の深刻な問題でもあった。
 外材輸入に依って、国産木材が大巾に値崩れしたのである。おまけに電化製品の進歩で、炭焼きも需要を失いつつあった。
 林業立村の五木村にとって、命取りの事態である。田山さんは考えに考えた。此の侭先細りして行く製材業に縋(しが)み付いているのは、自殺行為に等しい。
 じっくりと考えた田山さんは、すっぱりと製材業に見切りをつけた。そして、その本業を「五木荘」一本に絞る事にしたのである。自宅に毛の生えた様な宿は、増改築され、昭和三十六年(1961)、小綺麗な山荘風の粋な旅館に生まれ変わった。
 当時、五木村は林業者が泊まる丈の、小さな旅館は数軒有ったが、本格的な旅館は五木荘が初めてであった。
 村の人達は改装された五木荘を見て、眼を丸くした。そして、
「田山の若旦那は気が狂ったんじゃないか。あんなに旅館を大きくして、一体誰が泊まりに来ると云うんだ。東京呆けしとるんじゃなか?」と、笑い者にした。
 日本全土にレジャーブームが到来したのは、昭和四十年代後半になってからである。遠方から五木村の山や川を見学に来る、そんな暇な人間が居る筈がない。村人達が馬鹿にしたのも当然である。事実、満室になっても三十人の此の旅館が、軌道に乗る迄、十年の月日が費(か)かったのである。正しく気狂沙汰であった。ところが当の本人、田山さんは大真面目である。田山さんの胸には、確かな勝算があった。
 日本はこれからどんどん裕福になる。人間、裕福になれば当然、贅沢になる。贅沢になればレジャーが栄える。各地を観光する様になるだろう。
 確かに五木村は観光としての目玉が無い。谷や川丈である。レジャー施設が一つも無く、人が訪ねて来る名勝、名跡も無い。然し、此の地形は滅多にない地形である。村の九十六%が山野で、見渡す限り森林許りである。その狭間(はざま)に四%の住居空間が有る訳だが、これが絶景の郷の美を創り出しているのである。
 昭和三十年代に、五木村を観光立村にしようと企てた田山さんを、気狂い扱いする人は居ても、賛同する人は一人も居なかった。先見の明が有り過ぎたのである。早過ぎたのである。然し、大真面目な田山さんには、もう一つ大きな勝算があった。
 心強い味方が居たのである。         つづく。

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