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2009年12月12日 (土)

五木の子守唄

――沈没阻止に人生を賭けた人――

22. 公共事業は法に理に情に叶うものでなければ……
 田山さんは忌ま忌ましそうに云う――
「連中のやる事は汚ないですよ。どんな手段でも使う。銀行を使って、金を貸し出させるんですな。返済は何時でも良いからと、三百万、五百万と置いて行く。
 村の人は世事に疎(うと)いから、有難い有難いと良い気になって使って了う。使い果たした頃遣って来て、急に返せと迫りよる。返せないと云えば、立退いて補償金で払えと迫る。立退き先と、そこに建てる建設屋まで世話をする、という用意周到さですわ」
 人吉の郊外に、御殿の様な新築の家が点在しているのがタクシーの窓から見えたが、皆、五木からの移転組という事である。昔乍らの藁葺屋根(わらぶきやね)の農家から、近代的な豪華な文化住宅に住めると、喜んで移住して行った人達である。
「馬鹿な話ですよ。補償金の殆どを家の建築費に取られて了ってどうします? 五木に居りゃ、金は無くても或る程度自給自足で生活出来るが、あんな所へ行きゃ、忽ち金が必要になる」
 電気・ガス・水道料金等、五木村での消費料の何倍も掛かり、食費にしても田や畑を持たないから、全て購入しなければならない。おまけに、おいそれと就職口が見つからない。一年も経(た)たずして新築の家を手放し、何処(いずこ)へか消えて行った人も少なくないと云う。
 国は五木村を空っぽにするのが目的で、そこに住む人達はどうでも良いのである。
「公共事業は法に叶(かな)い、理に叶い、情に叶うものでなければならない」と云う、室原さんの主張とは程遠い政策である。補償金を得て浮き足だった人達は、村内の代替地造成を待たず、銀行の口車に乗ってどんどん移転して行った。

 昭和五十九年の初頭には、七十世帯を数えた反対派も、二十三世帯に減っていた。
 十二年に及ぶ長い闘争の空しさを噛みしめ乍ら、田山さんは幕を下ろす事にした。

「村を離れて行く人の数は予想以上でした。どうしても食い留める事が出来ない。
 十二年も仲間を引き摺って来た責任や家族の事を考えると、勝敗の見えている闘いを何時迄もやる訳にはいかん……。
 国側は、担当者が三年毎に変わって若返りを計り、交渉は何時も振出しに戻される。
 当時、三十代だった私も五十を越して了った……どうにもならんですわ」
 溜息混じりに苦笑する、田山さん。  

                     つづく。
 

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