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2009年12月 1日 (火)

五木の子守唄

――沈没阻止に人生を賭けた人――

13. 何が何でも映画に携わりたかった
 昭和二十八年――
 久郎青年が映画を目指して居る頃、遠いふる里では一大事件が起きていた。ダム計画が持ち上がっていたのである。
 戦後、政府は産業復興の基盤として、電源開発を最優先した。熊本県も球磨川水系の調査に乗り出し、昭和二十八年、現在の川辺川ダム計画地とほぼ同位置で、試掘調査が行なわれ、結果、堤高百三十メートルに及ぶ大型ダム計画に到った。
 朝鮮戦争に做(よ)る特需景気で、産業界は急速に成長し、エネルギー確保と供給が益々急務となっていたのである。
 それに依ると、五木村の中心部がそっくり沈む。吃驚仰天した村人達は、村を挙げて反対した。国のあらゆる説得に、誰も耳を傾けなかった。
 それというのも当時、五木村は潤っていたからである。木が飛ぶ様に売れたのである。戦災に依る焼跡にどんどん建物が建ち、朝鮮特需が拍車をかけ、雑木迄が先を争う様に伐(き)り出された。炭焼きも盛んになり、五木村の長い歴史の中で、一番栄えた時期であった。貧乏な五木村が豊かさを知った唯一の時期であった。
 村の総力に依る反対に、国も手を灼(や)き、ダム計画は何時の間にか立ち消えて行った。

 一方、東京の久郎青年は、故郷の騒動を母や友からの便りで知ってはいたが、何処か遠い国の出来事の様にしか感じていなかった。心の何処かで、故郷が沈む筈がないと楽観視していたのと、映画に夢中になっていた故(せい)でもあろう。
 久郎青年の大学生活は快適であった。林業と旅館業で裕福だった実家では、父親は息子に騙(だま)されたと分かった後も、せっせと送金した。
 当時、友人の殆どは、故郷を家出同然で出て来ていた。故に、文字通りの苦学生活をしていたのである。アルバイトもせず、毎日映画館通いをして、夜は酒を飲むという悠々自適の学生生活を送れたのは、久郎位であったろう。
 卒業も近付き、愈々就職戦線である。映画界の門は、益々狭くなっていた。何社か試験を受けたが、悉(ことごと)く落ちた。そして、卒業。
 映画会社に入社出来なかった友人達が、已(や)むなく他の道に散って行くのを横目に、久郎青年は映画への情熱を捨てる事が出来なかった。
 諦(あきら)め切れなかった。       つづく。

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