« 肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 16 | トップページ | 肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 18 »

2010年2月17日 (水)

肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 17

17.“あじさい”一本で生きる事にした……

 群馬は温泉の宝庫である。日本人の生活水準はどんどん上がりつつある。いずれ温泉のブームが遣って来る。今の様に、老人の湯治客許(ばか)りではなくなる。屹度(きっと)、温泉街は賑わうだろう。(此の感は後に大当たりとなる)
 千春は、中でも一番名高い草津温泉に乗り込む事にした。湯畑の近くのDホテルに就職し、フロントを中心に接客術を徹底的に勉強した。良く働くので、給料もどんどん上げて呉れた。
 草津で生きて行く自信がついた千春は、父母や兄妹達を草津に呼ぶ事にした。皆、千春に賛同し、一家は草津の人となった。

 昭和四十八年(1973)。
 遂に念願のスナック“あじさい”が誕生した。草津に来てから七年。千春二十五才の春の事である。
 此の時、既に母を亡くしていた。父の寂しさを思い、千春は再婚を勧めた。再婚相手は直ぐに見つかった。元芸伎だった苦労人の後添えさんは、働きたがった。
 それでは、と云う事で父と共に芸伎置屋を営(や)って貰い、千春も手伝う事になった。
 一家はどんどん栄えて行った。兄や姉や弟や妹は、結婚や就職と、それぞれの道を順調に歩んで行った。

 昭和六十年、父死亡。五十五年頃から体を悪くし、入退院を繰り返し、最後の一年は病気で寝たきりだったのである。そんな父に絶望を感じた後添えさんは、離婚を申し出て、父の最期の時は去っていた。
 それでも、父の最期は幸福であった。臨終間際には、子供達に見守られ、静かに息を引き取ったのである。いまわの際には、意識は朦朧(もうろう)としていたが、
「千春……千春……」と、千春の名前丈は呼び続けていたと云う。
 それ以来、芸伎置屋も辞め、千春は“あじさい”一本で生きている。
 これが千春ママの簡単な略歴である。千春ママさん直々に聞いた事と、地元の人から教わった事を混ぜ合わせているので、若干、事実と違う点があるかも知れないが、私の聞いた通り此処に記して置く事にした。
 扨、これからが騒動記の始まりである――。  

                   つづく。

|

« 肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 16 | トップページ | 肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 18 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 16 | トップページ | 肝っ玉姐さんの湯の町騒動記 18 »