2008年1月24日 (木)

vol.54 人は皆、五十歩百歩である

 輪廻転生――人は人として生まれ、修業し、そして没す。時を経て、又生まれ来る。その転生を繰り返し乍ら、その人間性、次元を高め、やがて頂点――神となる。
 人は人としてしか生まれ転(かわ)らない。人は犬や猫や狐や狸にはなれない。又、犬や猫達も決して人間に生まれ転る事はない。それは宿命であり、どんなに望もうが他のモノになる事は出来ないのである。又、人は一人一人別の魂を持っている。否、一つ一つの魂が、限り有る肉体を借りて今生を修業し、その肉体の破壊や滅亡、消耗に依って来世に向かい、又肉体を借りて修業にやって来る。
 人が他の動物や植物になれない様に、人は他の人にもなれない。他の人に生まれ変わる事は出来ない、有り得ない。それが天の摂理である。絶対の摂理である。
 どんなに愛する人がいても、その人にはなれない。又、どんなに愛されても、その人に代わって上げる事は出来ない。皆、別個のモノである。人は皆違うのである。
 何十億という今世に生きる人間……その個性はその儘何十億と有って、同じものは一つも無いのである。
 血液型で性格や運勢を決める馬鹿がいる。たった四つしかない型に何十億の人間を嵌めて了うのか? たった四通りしか生き方はないのか? たった四通りしか性格はないのか!
 星座や干支で運命を決める馬鹿がいる。たった十二通りしか運命はないのか。
 人の未来は、一分一秒先も分からない。天も分からない。天も分からないものが――何故分かるのか、何故予言出来るのか。有り得ない。
 運命は人それぞれが創るものである。何十億人が、それぞれの個性で判断、決断し、一秒一分を進み――一日に到るのである。人の将来を、来年はこうなる再来年はああなると、勝手に占うものではない。人の心を掻き乱すペテン師である。人の心の弱さに付け込む詐欺師である。姿を見れば判る。化物の姿をしている。
 人は他の人には生まれ転れない。人は自分の魂を何度も転生しながら磨いていくしかないのである。今世が小学生であれば来世は中学生となって、続きを勉強する。一足飛びに大学生にはなれない。小学生で怠けていれば、来世も留年して小学生から始まる。特例は無い。宿題を忘れれば、宿題をしない限り先へは進めない。誰も代わりに宿題はやって呉れない。例えやって貰えたとしても、身に付かないから先へは進めない。 
先へ先へと――つづく。

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2007年11月 1日 (木)

ホンモノへの道

vol.46 一日も早い気付きの一歩

 人間はどうも矢鱈競争したがる動物である。競争があるから戦う、競争があるから頑張る。
 競争がないと働きたがらない。怠ける。競争があるから働き頑張る。競争は生き甲斐なのだ。
 競争心が強い者しか勝てない、競争心の弱い者は負け犬となって敗退していくと信じ、必死に勝組になろうと頑張ってる人が多い。
 何か、物に憑依されたかの様にガムシャラに働く姿は、まるで夜叉である。鬼である。人の生血を啜る獣である。怪しい獣である。
 元来、天はその様なものを創った訳ではない。神はその様なものを望んだ訳ではない。人間成長の為に競いの心と争いの行動を与えたのである。競いの中で、争いの後で人間はその空しさに気付き、人間本来の姿に目醒め、終極の到達点、真価へと向かい始めるのである。
 競争は或る種の必要悪である。人間は痛い思いを、熱い思いをしなければ仲々目醒めない、厄介な動物である。
 競いの心や争いの行動が如何に空しく次元の低いものであるか――を知った時、人は生きる事の本当の目的を悟る。真の人間の姿、真の人間の生き方、そのスタートラインに立つ事が出来る。此処からが出発である。何と多くの人が此のスタートラインに立つ事なく、生き地獄のまま魑魅魍魎の世界に溺れ、この世を去って行く事か……。折角、生を亨け環境を与えられ、勉強のチャンスを頂きながら……勿体ない話である。競って勝って歓喜に溢れる幸福があれば、負けて絶望に悔し涙を流す不幸がある。幸福は不幸に支えられているのである。
 何故勝って人を不幸に落としたいのか。自分丈が良ければ良いのか。
 人は仕事、スポーツ、その他趣味や境遇に於いて、どうして喜びや悲しみを分ち合う事が出来ないのだろう。どうして人の物をもぎ取ってまで幸福になろうとするのか。どうして人を踏み倒してまで出世しようとするのか……それが如何に汚く詰まらないものであり、その先に有るものが本当の幸福とは程遠い、虚しいものである事に気付いていないからである。気付きもせずに此の世を去る人は本物の不幸である。気付いてもヨボヨボになってからでは、反省する力も残ってはいない。唯々、後悔しながら死んで行くしかない。
 一日も早く気付かねばならない。一日も早く気付き、スタートラインに立たねばならない。人として、自然に融け、全ての物と共に存り、共に生きる素晴らしい道を歩き出さねばならない。          つづく。

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2007年10月15日 (月)

vol.45 一番の敵は己の中にある

 内なる獣とは何であろうか。外なる獣との闘いは楽である。自分が正義であるが故に、非常に気持良く生甲斐を持って闘える。世間の賛同も応援も得られる。だが、内なる獣との闘いは難しい。何といっても相手が自分である。どうしても甘やかしたくなる。身内贔屓である。獣といえども自分の裡に有るものである。嫌悪感に苛まれていても我が身内だ、その制裁には時間が費かる。ついつい一日延ばしになる。一日延ばしをすればする程、嫌悪感も募る。そして愈々裁断の時がやって来る。その時は完膚無き迄、やっつけなければならない。でないと内なる獣は、又ムクムクと勢力を持ち直して来る。
 獣を撲滅するには鬼になるしかない。心を鬼にして身内なる獣を退治しなければならない。言うは易し行うは難し、これが仲々一朝一夕にはいかない。厄介なものである。一番の敵は己にあるのである。
 大体人間はある程度生きて来ると、大した事もないのに自分を壊すのを恐れる。何か築いて来た様な気でいるからだ。錯覚である。
 本当に築かれた本物の城は壊れない。何があっても微動だにしない。
 積りだから、錯覚だから、未だ途上だから、一寸した事でも脆く、崩れる。何も築いてはいなかった事に気付かねばならない。
 政治のトップの座に居ても、たった一言の失言で失墜する。大体、失言という言葉が可笑しい。失言なんて言葉は、本来心にも無い事を言って了う事だが、人は心にも無い事は言わない。ずーっと心の中に仕舞って置いた言葉が、その本音が自制心を欠いた時に飛び出して来るのだ。油断して本性を出した丈である。元々そういう人間なのだ。化けの皮が剥がれた瞬間が失言という形で表われた丈である。
 人は何か築いた積りでも大したものではない。その城は泥かも知れない。ガラスかも知れない。だから、安心して解体すれば良い。未練たらたらの気持を捨てて、潔くぶっ壊せば良い。それが出来れば、次にはホンモノの城が建つ。
 壊す事の勇気が持てれば、内なる獣と闘うのはいとも簡単である。内なる獣――我欲なんてものは解体作業の中で脆くも消滅して了うものである。 
 人に良く思われ様とする自尊心は、自己解体に依って消え、人に勝とうとする競争心は、その元にある自尊心の消滅に依って必要性が消える。名誉欲、征服欲という、大それた獣欲も、此の自己解体という作業の中で次々と滅びてゆく。そして人々の中に本当の平和が生まれて来るのである。     つづく。

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