2009年6月 1日 (月)

隆明の小言・戯言・独言(こごと・ざれごと・ひとりごと)

 ②何事も程々かな
「人間、欲が無いと生きて行けない」と言うが、それはそうだな。生きて行く事、そのものが欲だからね。歩く事も見る事も、聴く事も食う事も、眠る事も生き度いと思う事も、死に度いと思う事も皆、皆欲だから本当の無欲は此の世に存在しない、存在する筈の無いものなんだな。
 だから、存在しないものだから、喜びも怒りも哀しみも楽しみの感情も生じない。
 自然の大気の中に融け込んだ塵の様な存在。風の無い風、無風という風、存在。自然の中に融け込んだ塵、風の存在が「神」なんだな。目に見えないものなんだ。
“在るけれども見えない、見えないけれども確実に居る”
“確実に在る、それが神”なんだな。
「宗教なんかに入らなくとも、これが解かれば何も要らない、宗教に入る事そのものが欲なんだよ。多少の依存は良いが、気触(かぶ)れちゃいけない。埋(のめ)り込んではいかん。思う壷(つぼ)である。悪い宗教家に骨の髄(ずい)までしゃぶられる。
 生きる事そのものが欲なんだから、欲はそれなりに必要なものなんだ。だけど、欲張り過ぎると不幸になるよな。自分の器というものを知れば不幸にはならない。
 自分の器が湯呑み茶碗なら、その器にバケツ一杯の湯を注いだら、溢れ出て、その湯で火傷をするのがオチだ。
 沼に鯨は生息出来ない。沼という器に鯨を放り込んだら、沼の水は溢れ出てカラッポになって了う。
 器以上の欲はその人を滅ぼす事、請け合いだね。
 人に対する欲も程々が良いね。子供の幸福を願って期待し過ぎると、子供の負担になり、却って子供が不幸になる。親も不幸になる。
 何事も程々が良いね、何事も匙加減かな…。
 自分への欲は人へのそれの三十パーセント位が、程良い加減かなー、と思う今日この頃だね。うん。

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2009年4月 3日 (金)

vol.103 運 命(うんめい)

     運  命

人は宿命を亨けて 此の世に誕生する
宿命はそれぞれに 異なる

それぞれの宿命の元 人は運命を辿る
人の運命はそれぞれに 異なる

運命は 定め ではない
宿命の定めを亨けて 運命を生きる

運命は その人その人の 生き様である
良き運命に生きようが 悪しき運命に生きようが
その人その人の自由である

運命は定められたものではない
自ら運び 選択し 自ら結果を出すものである

どう運び 何処へ行くのか
その人の自由である

良き運命を辿りたい
良き運命を辿らねばならない

素晴らしい 運命を生き
素的に 此の世を旅立たねばならない
此の世に 愛を残して……

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2009年3月16日 (月)

vol.102 幕が下りる前に

幕が下りる前に
想いを込めた熱き熱き時間が
今 終わろうとしている

幕が下りる前に 
今一度 あなたに云いたい
人を想う気持を  忘れないで欲しい
かけがえのない友達を 
       大切にして欲しい
毎日毎日を一生懸命 生きて欲しい

明るくて  楽しくて 
      温かい人になって欲しい
今日出会った事を 忘れないで欲しい
いつか屹度  あなたの想いが
いつか屹度  あなたの愛が
人の心を打ち 
人の魂を動かす時が来るだろう
そんな素的な人に なって欲しい

幕が下りる前に  もう一度あなたに
出逢いの終わりに 
また逢う日を願いつつ
さよならを云おう
さよなら さよなら さよなら
また い・つ・か

   CHANCE 1  ――幕――

※vol.1~102までを編集して出版致します。販売予定は4月26日です。全国書店及び企画出版天恵堂でお求め下さい。

★CHANCE 2 vol.103~200は3月24日よりスタートします。引き続きブログを御覧下さいませ。

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2009年3月14日 (土)

vol.101 貴方も超能力者に

 此処までを何度も何度も繰り返し読む人は、何時の間にか超能力者としての資質を深めていく。極極自然に超能力者となっていく。
 繰り返し繰り返し読む中に、魂が磨かれ、人への愛が深まり、自然に超能力を駆使出来る様になるのである。
 元々、難しい事は一つもない。只、“我”を小さくすれば良い丈である。只、我より他を、人を大きくすれば良い丈である。
 超能力とは、極極当り前、極極自然の力の事である。
 我が小さくなれば、その血は清く、その血は爽やかに、そよそよとさらさらと、澱みなく流れる。それが自然である。
 我が大きくなればなる程、血は濁り、その血は泥々と無気味に、ざわざわと騒がしく流れる。そして、その肉体は病の巣窟となり、阿鼻叫喚の中に滅びる。
 病の殆どは“気”である。“我”という汚気が肉体を蝕むのである。
 修業して暖かい心と、清い心を持った貴方は、その清き爽やかな血のパワーを駆使し、汚気を持つ、汚血を持つ人達を助けて上げる事が出来る。
 貴方に接した人は、貴方の言葉に暖められ反省させられ、感謝する事を学んでいく。病は軽くなり、やがて完治する。
 気の流れ血の流れの綺麗な人は、その両の手を病の人に当てて上げよう。
 その手から出るパワーが病の部位を暖め、澱んだ血流を爽やかな清流へと導いていく。それに気付いた病の人は、自ら治そうと頑張り始める。貴方の手を借りて、自らの力で病を撲滅していくのである。
 それでも治り難い人には、その掌で摩って上げよう。患部が暖かくなる迄、何度も何度も摩って上げよう。
 それでも治り難い人には、親指と人差指を結び、人差指の腹で擦って上げよう。上達すれば汚血が皮下出血となって、浮き出て来るようになる。
 汚血の少なくなった血管は小川の様な流れとなり、患部を治していく。病気の殆どは“血”なのである。血が汚ければ色んな臓器が腐る。血を清めなければならない。
 血を清めるのは“気”である。
 暖かき心、清き心を育てれば病は消える。
 病も健康も、全て気なのである。素的な気を以て人を助けよう!

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2009年3月13日 (金)

vol.100 大切に……

人を想う気持を大切にしよう
だって、それが愛だから

生んで呉れた親を大切にしよう
生まれて来なければ貴方は存在しないのだから
育てて呉れた親に 感謝しよう

人を好きになろう
人を好きになれば友達になれる
善き良き友は 貴方を磨いて呉れる

生涯を共にする パートナーを大切にしよう
お互いに 命を預け合ったのだから
パートナーを尊敬しよう 貴方自身なのだから

夫婦は 一心同体
手を繋ぎ 決して離さないで
寿命の尽きるまで 天のお迎えが来るまで
何時までも その手を離さないで
お互いを 大切にしよう

生まれた子供を 大切にしよう
生まれた子供を 素的にしよう
それが親の役目であり 誇りだから

迷ってる人がいたら 困ってる人がいたら
怒ってる人がいたら 悲しんでる人がいたら
貴方の出来る 最大限の愛を以て
叱咤激励して上げよう
出会った縁を大切にしよう 皆を素的にしよう

つづく。

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2009年3月 6日 (金)

vol.99 悲しみの瞳

悲しみの瞳を向けられた時
心配を掛けたのかな と思い
御免なさい と言いたくなる

射すような瞳を向けられた時
叱られるな と思い
何故か 嬉しくなる

涼しい瞳を向けられた時
見透かされてるな と思い
気に入られよう と焦る

微笑みの瞳を向けられた時
愛されてるな と思い
涙が 溢れて来る

その人は何時も 白
その人は何時も 鏡

怠けていると 汚い心でいると
その人は悲しみの瞳を向ける

輝かなければ と思う
悲しみの瞳に
ありがとう と言おう

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2009年3月 2日 (月)

終章 人生……やがて

vol.97 病院に行くな

 人は皆生まれ――やがて死す。その人生を大切にしなければならない。その人生を快適に過ごさなければならない。
 誰しも幸福になりたいと思っている。誰も不幸になりたいとは思わない。
 幸福も不幸も我が内に有る。幸福も不幸も何処かから舞い込んで来る訳ではない。
 全て自分自身である事の真実を、今迄読んで来た貴方は気付き、理解して呉れたと思う。理解出来なければ、何度も何度も声を出して読んで頂き度い。
 何度も何度も読めば読む程、理解が深まり、それは実行へと繋がる。実行出来ない理解は理解ではない。頭の中で知識として存在する丈である。
 何度も何度も読む中に、それは頭から離れ、魂の中に浸透して行く。それは魂を磨き、自ずと実行へと、繋がるのである。愛という大きな武器となって人を助けるのである。
 人の魂を磨くには、先ず己れの魂を磨かなければならない。理屈では人を説得出来ない、理屈では人は感動しない。
 自分が感動しないものは、人が感動する訳がない。自分が情熱を持たないものは、人を冷めさせる丈である。

 人は大切な人生を監獄で過ごしてはならない。その大切な日々を病院で過ごしてはならない。
 人は間違って監獄に入って了ったら、間違って病院に入って了ったら、大いに反省し、反省の日々を懸命に送り、一日も早く社会に復帰しなければならない。
 そして、残りの日々を、残りの人生を大いに感謝し乍ら、実りある充実した人生にしなければならない。二度と刑務所に入るな、二度と病院に入院するな。
 病院へ行くのは検査丈で良い。定期的に検査をしていれば、どんな病も初期の中に、軽い中に発見出来る。そして、入院しなくても、反省して生活習慣や態度を改善する事に依って自分で治す事が出来る。自分が患者で、自分が医者なのである。
 故に、病院へ検査に行っても、病院に入院するな。
 病院へ行っても、病院に行くな!
 反省と感謝が有れば、全ての事は改善出来る。
 この二つさえ有れば、沢山の本も宗教も要らないのである。 つづく。

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2009年2月 3日 (火)

vol.95 メッセージ4 第二の人生、伴侶と共に……

 親の元から飛び立ったその子は、やがて第二の人生を共に歩む、人生の伴侶と出逢う。良き親にスクスクと育てられたその子は、親に見倣い素的な家庭を築く。
 悪き親の元で育ったその子は、親を反面教師として、その轍を踏まず、素晴らしい家庭を築こうと努力し、それを完成させる。
 独身主義者が結構居る。人間失格者である。人は何の為に生まれて来たのか、という一番大事な事を無視するのは、生きている事そのものを無視しているのと同じである。世の中を、人を信じない、自己中心の孤立人間である。生きていても何の役にも立たない、寧ろ、害である。害人である。
 人は遅かれ早かれ、第二の人生を共に歩む伴侶に巡り合い、愛を育む義務と幸福になる権利を以て生きて行かねばならない。それを怠る者は小学校で終わる。中学校も高校も大学も大学院も無縁で終わる。
 人生の学校、人間修業に終りは無い。どんどん勉強して、どんどん素的にならなければならない。素的になって出会う人の、地域の、世界の為に働き、活躍しなければならない。
 一生の伴侶に出逢ったら、互いに別の環境に育ったのだから、食い違う所は大いに議論し、思いっ切り喧嘩をし、一生懸命貶し合い、命懸けで、共に生きて行かねばならない。手を抜いてはならない。妥協してはならない。離婚に繋がる。
 愛していれば、愛が深ければ、無理なく、思いっ切り喧嘩が出来る。喧嘩する程仲が良いって言うが、正しくその通り、愛がどんどん深まって行くのである。
 愛が深まれば深まる程、お互いの業が削れ、誤解が融け、尊敬の念が湧いて来る。お互いを尊重する様になって来る。そして、何時の間にか喧嘩もなくなっている。一生添い遂げる、素晴らしい夫婦に成っているのだ。
 決して離婚をしてはならない。お互いの我が強いから離婚する。浮気をしたり、信頼を裏切る行為をすれば、離婚に繋がるのは当り前である。絶対に伴侶を裏切ってはならない。然し、裏切り行為をさせた伴侶にも半分責任がある。裏切らせた罪がある。
 離婚して了ったものは仕方がない。お互いに深く反省して、次に出会う伴侶を大事に、大事にしなければならない。深く反省して自我を少なくする事に努めれば、二度目の失敗はない。二度も失敗する奴は、正に真に人間失格である。
 人間は伴侶に巡り合い、愛を育み、愛を深め、やがて……目の中に入れても痛くない、宝の子を授かる。          つづく。

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2009年2月 2日 (月)

vol.94 メッセージ3 父、母は素晴らしい存在である

 物事には必ず始めが有り、終りが有る。命にも必ず始めが有り、終りが有る。その始めから終り迄を、人生と言う。その人生に同じものは無い。良く似ていても、決して同じものでは無い。
 同じ表現をしても深さが違う、感性が違う、味が違う。だから、人は面白い。だから人生は面白い。
 人生が短い人も長い人も、人生は人生。望もうが望むまいが、生まれて来た限り死がやって来る。人は死ぬ為に生まれて来たのである。短かろうが長かろうが、その人生を大切に生きねばならない。
 人の値打は、その人生を何う生きたかで決まる。その結果は死に様に証明される。良き死に様は、悪き死に様は、良き生き方と悪しき生き方の結果である。人は皆、良き死に様で終らなければならない。気付けば、反省すれば、遅過ぎるという事は無い。必ず幸福になれる。
 人は皆、父と母を選び、其処に宿り、やがて今世に誕生する。その子にとって、その父と母でなければならぬ理由を持って此の世に産声を発す。良き親であれ悪き親であれ、その親で勉強する為に生まれて来るのだ。
「何故、こんな非道い親の元に生まれて来なければならないんだ」「生まれて来るんじゃなかった」「いっそ死んで了い度い」「何故こんな目に遭わなければならないのだ」「殺してやり度い」と、怒り嘆いてはならない。その親でなければならない事に気付かねばならない。
 宿題をやらなかったら、その分学業が遅れ、後に苦労する事になる。前生で学業(人生)を疎かにした人は、その分、今生で苦労するのは当り前の事である。その子の父母は、自分の前生の姿である、と思えば怒りは消える。怒るなら自分を怒るしかないからである。
 父母は自分の前生であり、反面教師でもある。気付かせて呉れる、素晴らしい存在なのである。感謝しなければならない。
「何て素的な親なんだろう。こんな親の元に生まれて、何て幸福なんだろう!」…その親はその子の前生の姿である。きちんと宿題をやって、御褒美を貰って今世に誕生して来たのである。当然の事である。
 良きも悪しきも当然の事である。何れも感謝しなければならない。感謝しなければ良きも悪しきも、やがて、その人生は宿題を忘れ、苦労する事になる。
「生まれて来た丈で、産んで呉れた丈で大儲け」と言える人が沢山居る。その通り、どんな条件であれ、生まれて来ない限り、勉強する事も出来ない。
 その子は、やがて親の元から飛び立ち……やがて、一生の伴侶と出合う。   つづく。

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2009年1月 7日 (水)

vol.92 メッセージ1 真実の扉を開けると

 ホンモノや真実を求めたがる人がいるが、それはホンモノや真実に会った事が無いからである。真実の人は殊更に真実を求めない。当り前である。真実なのだから。
 ニセモノが真実を、ホンモノを追求するのである。そういう輩はホンモノを見てもホンモノとは気付かない。それ所か、疑う余地もなく自信を以てニセモノと決め付ける。見事なニセモノである。そういう人は一生ホンモノに巡り合えない。又、巡り合えない方が幸福なのかも知れない。もしホンモノに出合ったら、真実の扉を開けたら、不幸に陥る。ショックで絶望に陥る。知らぬが仏である。然し、その侭今生を終われば、来世もホンモノに成るチャンスを逃がし、今生と同じ低次元を彷徨わなければならない。
 厄介なのは違いが解らない事である。何故ニセモノに騙されるのか……。ニセモノであればある程、ホンモノと思い込んで了う。ホンモノの馬鹿である。
 馬鹿と阿呆は違う。この違いから勉強しよう。
 よく詐欺に遭う人は馬鹿であり、詐欺師の格好のカモである。その人の内なる欲を見抜き、美味しい話をエサに根こそぎ“財産”を吸い取って了う。吸血鬼の的は馬鹿である。
 馬鹿と阿呆は違う。阿呆は欲がない。財産もない。そんな阿呆を相手にする詐欺師はいない。ホンモノがどんなモノか……。どうしても知りたければ教えて上げましょう。
 体型をご覧なさい。ホンモノに肥満はいません。必要以上の食欲がないからです。太鼓腹や三段腹はニセモノです。
 服装をご覧なさい。ホンモノは質素です。貧相では有りません。清潔感漂う、必要以上の飾りは有りません。チャラチャラ、キラキラした物を身に付けて、これ見よがしに歩いているのはニセモノです。
 ホンモノは本当の事を言います。お世辞は言いません。嫌われるのを怖れず、ボンボンと本当の事を言って上げるのがホンモノです。
 ホンモノに淫乱はいません。色を好みません。ホンモノに男女の区別は有りません。動物的性欲は非常に少ないのです。こよなく人を愛する欲に肉体的な欲望や行動は不要なのです。
 ホンモノの欲は人間愛なのです。 
 未だ未だ続くが此処迄でホンモノには成り度くなくなったでしょう。そうじゃない人は、続きも読んで頂きましょう……    つづく。

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2009年1月 6日 (火)

vol.91 今在る故に……

 人は人を愛する為に生まれて来た。人を憎み騙す為に生まれて来たのではない。
 人は人を愛する事に依って喜びを知り、感動を覚える。人を憎み騙す事に依って悲しみを知り、絶望を覚える。善き事の後に幸福があり、悪き事の後に不幸がある。
 物事には始めがあり、終りがある。出会いにも始めがあり、必ず終りが来る。
“始め”そのものが“終り”であるかも知れない。たった一度の出会い……又会いたい、又会えるだろうと思っていて、遂に会えず終いになる事もある。だから一期一会、その時を、その人を大切にしなければならない。一度丈、もう二度と会う機会が無いと思えば、その時をその人を大事に出来る。素晴らしい時を過ごす事が出来る。それが、又会えた時の喜びはどうだろう。飛び上がらん許りに嬉しくなる。お互いの無事を喜び合える。又、楽しい時を過ごす事が出来る。そして会う度、会う度前より増して愛が深まる。そういう友でなければならない。そういう友にならなければならない。
 人は、今在る事に喜びを覚えなければならない。今在る事に感謝しなければならない。
 詰まらなそうな人に出会ったら、今在る事の楽しさを教えて上げよう。
 悲しそうな人に出会ったら、今在る事の喜びを教えて上げよう。
 怒ってそうな人に出会ったら、今在る事の有難さを教えて上げよう。
 人は人と出会い、愛し合う事に依って磨かれ、成長して行く。
 暖かき心、清き心を以て接すれば、どんな人とでも仲良くなる事が出来る。貴方を騙そうとした人も、何時のまにか心を改める様になる。暖心、清心を持った人は騙せない。暖心清心の人に会うと、自分が恥ずかしくなり、改心へと向かうのである。騙される人は、自分の中に汚いものがあるからである。自我欲が強いからである。
 騙す輩は、その自我欲に付け込んで来る。騙された事を怒ってはならない。騙された自分が悪いのである。
 善き事は全て人のお陰、悪き事は全て自分の所為、と思えば腹の立つ事は無くなる。今在る事に感謝出来たら、今何をすべきかが分かって来るだろう。自分の為に費す時間が勿体なくなるだろう。何か、人に会って、何かをその人にしたくなるだろう。又、その人と共に何か、世の為に働きたくなるだろう。
 今在る事に喜びを感じ、感謝の心が湧いて来たら、放って置いても貴方は動いている。今在る故に……。    ―つづく―

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2008年11月14日 (金)

vol.88 中途半端なボランティアは……

 或る日、夢枕に沢山の像が現われ、次から次と眉間を突き抜けた。
 十六年出来なかった子供を授かる。医学的には子供を産めない妻であった。
 天啓を享けたらしい。以後、正業を人に任せ救済活動に走る。
 初めは病。指で擦る丈で奇跡が次から次と実現。その謎を追求する中、ファンも増え「コミュニティクラブ自然会」が誕生した。
 そんな中、小学二年に成った息子がTVを見ていて泣き出した。画面は灰の降る中、ヘルメットを被り、マスクをして仮設校舎に向かう小学生を映し出していた。
 噴煙上げる山を凝っと見つめる児童を、茶の間で眼を真赤にし乍ら見つめる子。その子は「僕の貯金を全部持って行く」と言う。その親も会員を引き連れ、息子と共に山に向かった。これは、その後に日本列島に次々と起こる、大災害の幕開けであった。
          ××××      ××××
 長崎は島原、雲仙普賢岳。現地はTVの画面で見た印象より遥かに酷い、筆舌では尽くし難い惨状である。我々は立入禁止の、間断なく溢れる火砕流を横に見乍ら山を登って行った。この被害を肌で感じる為に登った。そして、その被災の中心地を目の当たりにした時、その怖ろしさに我々は茫然と立ち尽くして了った……。後にお叱りを戴いたのは当然の事である。此の日から自然会の雲仙島原復興支援が始まった。十年に及ぶ、長い長い活動のスタートであった。
       ××××      ××××
 島原の傷みと苦しみは、男とその仲間のものとなった。
 今、何をすべきか――試行錯誤の中、連日被災者の分宿先を訪ね、励まし、慰安会を催し、時は過ぎて行った。ホテルでの親子クリスマス会は年々参加者が増え、男と仲間の財産は減り続けて行った。普賢は一向に鳴り止まない。
 ホンの一週間、長くても一ヵ月の積りで行った島原。現地に立った男は愕然とした。そんなものでは済まない、済む訳がない。せめて火砕流が止んで、被災者達が自分の土地に戻れる迄、否、戻ってからも後、被災前の状態に復活する迄、援助しなければ助けに来た事にはならない。中途半端なボランティアならしない方が良い、決して被災者の為にはならない。
 男は少年時代に叱られた孤児院の園長さんの顔を思い出していた。「もう来ないで下さい」と言われた厳しい言葉を思い出していた……。    つづく

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2008年11月 5日 (水)

vol.87 奇異なる人生

 人は夫夫色んな人生を送る。愛情に包まれた、豊かな家庭に生まれた子はスクスクと育ち、その幸福を人に分かち、その優しさで人を幸福にする。皆、そういう人生を辿れれば良いのだが……。
 奇異な生まれをしたる者は奇異なる人生を辿る。
 飲む打つ買うの極道親父は十一才の少女を奉公に出す。親父の借金はどんどん増え、一家五人の生活と借金の為に、十五才になった娘は芸妓となり、景気の良い満州に渡った。
芸妓は売れっ子となり稼ぎに稼ぐが、極道が追い掛けて来て、先から先へと借りて行く。
 第二次大戦、勃発。料亭は偉い軍人さんで賑わった。花形芸妓は貴公子に見染められ、身籠もる。戦局悪化は満州の一般人には届かなかったが、料亭に来る軍人さんのヒソヒソ話で知った。敗戦は必至だ!と。
 貴公子の友人が腹の大きい芸妓を危険の迫る前に、日本に逃がした。この配慮がなかったら、その子は今、生きていても日本の言葉は語っていないだろう。
 貴公子は敗戦間際に参戦して来たソ連軍に捕まり、シベリアに投獄され、遂に日本の土を踏む事なく、獄死した。毒殺であった。
 芸者の子は私生児となり、敗戦の焦土の中、スクスクと明るく、いじけ乍ら育って行った。
 少年は殆ど学校に行かなかったが、何故か高校まで卒業出来た。学校には行かなかったが、孤児院や少年院には行った。其処の子達が好きだった。アルバイトをしては、お菓子や文具を買って持って行った。皆、喜んで呉れた。兄弟の様に仲良くして呉れた。凸凹道を見つけると、砂を運んで来て埋めた。大きな穴を見つけると、杭を打って囲いを作った。壊れそうな塀を見つけると、縄を張った。楽器を覚えると、工場に行って若い就労者達に聴かせた。
 ある夜、孤児院の子達が集団で私の部屋に駆け込んで来た。毎週遊びに行ってた少年が三週間も来ないので、逢いたくて逃げ出して来たのだ。
 翌朝、皆を孤児院に送って行った時、園長室に呼ばれた。
「中途半端な親切なら止めて下さい。あの子達は人に飢えているのです。下手な同情はあの子達を不幸にします。もう来ないで下さい」私は反省し深々と頭を下げた。
 貧しい少年は大学を断念し、一念発起、東京に上る。あらゆるアルバイトをし乍ら演劇の道に入り、二十三才で結婚。以後独立。夫婦でプロダクションを切り盛りし乍ら、役者、脚本、演出と手掛け順風の時代を送っていた――が。     つづく。

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2008年9月19日 (金)

vol.84 幸福の原理とは……

 本当の幸福とは裕福になる事ではない。本当の幸福とは人に勝つ事ではない。本当の幸福とは人より優秀である事ではない。
 貧乏が不幸なのではない。人に負ける事が不幸なのではない。人より劣っている事が不幸なのではない。本当の幸福は貧富や優劣や勝敗のような、次元の低い、一喜一憂の中には無い。
 本当の幸福は自己を捨てた他愛の中に在る。
 人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとし、親身になって慰める。人の怒りを我が怒りとし、優しく労り鎮めて上げる。人の楽しみは一緒になって共有する。
 縁有って関った人と、励まし叱り慰め合い乍ら愛を深め、お互いに成長して行かなければならない。
 安易で軽率な結婚は、我儘で身勝手な離婚に終る。祝福して呉れた沢山の人をガッカリさせる。子供が不幸になる。その子供の前途に多大な影を落とす。
 離婚は犯罪である。離婚は世の中を悪くする。離婚は社会を低下させる。大罪である。
 人は愛される為に生きるのではない。人は人を愛する為に、愛する故に生きるのである。その原点が理解出来れば離婚は有り得ない。その原点を実行出来れば、離婚という言葉は永遠に死語となる。
 自分を愛し自分を喜ぶ心と、人を愛し人を喜ぶ心とでは、同じ人間なのに大きく大きく違う。月とスッポン、雲泥の差、否、もっともっと差がある。
 自分への愛は、やがて人から嫌われ友を失くす。
 人への愛は、やがて人から慕われ感謝され、友がどんどん増える。
 この原理が分かっても、未だ自己愛に走る人は、自己中心から離れられない人は救いたくても救いようがない。
 この原理を理解しようともせぬ人は、世の害となり毒となり、やがて地獄の底を這いずり回り、阿鼻叫喚の中で一生を終える。自業自得である。
 本当の幸福を知った時、本当の愛を知った時、自ずと今何をすべきかが判明する。その悟りを開いた瞬間から貴方に黄金の道が拓ける。幸福の道を突き進むのである。くれぐれも御他愛を、である。     つづく。

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2008年7月 9日 (水)

vol.75 燃ゆる愛

 人間、此の世に生まれて来た限り、一つの使命を享けている。無意味に生まれて来る事は有り得ない。間違いなく、必ず、絶対意味を持っている。此の真実を信じ認識すれば悲観という言葉、絶望という言葉は貴方の脳裡から失くなる。
 人は人それぞれが他の人には無い価値を持って生まれて来る。焦せらず、じっくり、冷静に自分を観ていれば、自然にそれを発見する事が出来る。必ず有るのだから絶対に諦めない事だ。そして、それを発見したら、その価値を駆使しなければならない。それを駆使する事が享けた使命なのである。
 人は、それを発見した時から沸々と使命感が湧いて来る。情熱が湧いて来る。そして、それを駆使する時、貴方に力が湧いて来る。勇気が湧いて来る。
 言葉に言い表せない程の充実感と幸福感が漲(みなぎ)り、天の加護を得て素晴らしい仕事が出来る。失敗は有り得ない。人々に感謝される。
 然し、欲が首をもたげた時、その欲が判断を狂わす。失敗する。失敗しない為には常に自分をチェックする必要がある。
 ①今、行いたい事が自分の為丈のものではないか?
 ②自分もそうだが人の為にもなるものか?
 ③全て人の為で、其処に自分は見当らないか? とチェックして見よう。
 自分の為丈のものなら、初めは上手くいっても後に必ず失敗する。人に嫌われ不幸になる。
 自分にも人の為にもなるものであれば、人の為の方を優先すれば一応は成功する。
 全て人の為で、奉仕の精神に満ち溢れていれば、それは必ず実る。人々に感謝され大成功する。それを大我大欲の大勝利という。
 奉仕の精神を支えるもの、原動力は愛である。愛の精神が満ち溢れていればいる程、深ければ深い程、天の支援を得て人々を幸福にする事が出来る。
 愛が深くなればなる程、その人は磨かれていく。その力は、どんどん大きくなる。
 ホンモノの愛に障碍はない。その深さに、その大きさにサタンも逃げ出し、寄付かなくなる。
 ホンモノの愛は燃えている。灼熱の炎となって燃えている。
 大きく大きく、熱く熱く、燃ゆる愛なのである。 つづく。

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2008年6月24日 (火)

vol.73 天国と地獄の切符……どっち?

 両親や兄弟の愛に包まれ、素晴らしい師や友たちに恵まれスクスク育つ人は幸福である。世界の家庭や環境がそうであれば、何と素晴らしい事か……。争い事の一つも無い世界が其処に有る。争い事が無いのだから、軍隊も警察も核兵器も不要のものである。
 悩み事や心配事も無いのだから、宗教も暇だし詐欺も成立しない。
 然し、そんな完璧な理想の世界は未来永劫構築出来ないだろう。全体的に考えれば長い時間を費けて少しずつ理想に近付く事が出来るかも知れない。懸命に努力する人を一人ずつ増やして行くしか方法はない。
 世界を悪魔の巣窟にして了うのは簡単で、時間は費からないが、世界を天使の愛の園にするには遠大な時間が費かる。気が遠くなる程の努力が必要である。
 苛めや人を殺す奴は人間ではない。悪魔である。然しそういう奴も生まれつき悪魔だった訳ではない。そういう奴の殆どが家庭に理由がある。必ずといって良い程両親に原因がある。両親が仲良く愛し合っている家庭に生まれた子が、悪魔になる事は先ず有り得ない。
 世の中で起きている犯罪は、その犯人の親に多大な原因がある。だが犯人が成人である限り、その親は罪を問われない。刑を科せられる事はない。最大の責任はその生産者である親にある筈なのに、親が刑に服する事はない。だから犯罪が減らないのである。親が刑に服するのであれば良い加減な育て方は出来ないだろう。
 然し、どんなに悪い環境に育っても素晴らしく成長する人も沢山いる。
 自分の不遇を親や世の中の所為(せい)にせず、親を反面教師として、世の中を修業の場として、前向きに明るく生きている人が一杯いる。どんな仕打ちに遭っても決して恨まず、人を愛し、楽しく生きている人が一杯いる。
 自分の境遇を嘆き悲しめば、内にサタンを誕生させる事になる。そしてそのサタンは、親や世の中への復讐鬼となって暴れ出す事になる。そうなれば破滅である。
 自分の不遇を自分に与えられた試練だと、境遇に天に感謝し懸命に生きてゆけば、内に天使を誕生させる事になる。
 一つの仕打ちを不遇と嘆くか、励みとするかで天国と地獄に別れる。
 果して、貴方はどっちの切符を手に入れますか? つづく。

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2008年5月29日 (木)

vol.72 サタンに打ち勝ち撲滅しなければ……

 天災は忘れた頃にやって来ると言うが、近年は世界のあちこちで頻繁に起こり、忘れる時間も与えてくれない現況である。
 健康の為に健康食品を摂り、太り過ぎない様にスポーツジムに通い、美容の為にサロンに通ったりと、金と時間を費やしても一瞬の災害で、あっという間に命を落として了う…。
 どんなに努力をしても何の甲斐もなく、何の意味もなく消えて了う肉体。健康、健康、健康と幾ら追求しても無駄な事なのである。
 人は幸福すぎると人の不幸に気付かず、自分の外形の美ばかりを追求する様になる。自分の命を長らえる事ばかりに熱中する様になる。欲張りなのである。醜い欲張りである。そんな人程、病に罹る。
 人の事に、人の為に夢中になり時間を費やす人は病に罹らない。病の入り込む隙がないのだ。病とは縁が無くなる。病と縁が無いのだから、薬や病院とも縁が無い。
 自分の為に生きてる人は金が貯まる。金をいっぱい貯めて、病に罹ったり事故や災害に遭って、結局は治療費や修繕費に使い果たしたり、使う前に朽ち果てる。
 扨、どちらの生き方が良いか、どちらの生き方が幸福か……。瞭(はっき)りしている事だが馬鹿には分からない。分かろうともしない馬鹿は救いようもない。
 人の喜びを我が喜びとする。その至上の幸福を知った時、人は人に夢中になり、命を燃やす。燃ゆる命となり、魂は磨かれ光り輝く。黄金の道を走り出すのである。燃ゆる命、燃ゆる愛を駆使して、世界を浄化へと導いて行かねばならない。
 素晴らしい人とは、人に愛される人である。素的な人とは、人を愛し人の為に一生懸命働ける人の事である。何時も爽やかで、その笑顔は周りの人を暖かく包み込む。その言葉は人の心に響き、その愛は人の魂を搏(う)つ。
 人間は戦争をする為に地球に生まれて来たのではない。
 国と国との戦いが無くなれば、国内で仲間喧嘩をし、仲間喧嘩が無くなれば隣人と諍いを起こし、隣人との諍いが治まれば家族内で骨肉の争いを起こし、果ては肉親をも殺して了う。
 平和平和と唱え乍ら、その実、実に戦う事が好きなのも人間である。
 無理に戦う理由を作ってでも戦争をしたがる輩がいる。サタンである。
 我々は此のサタンに打ち勝ち、サタンを撲滅しなければならない。
 我が内に有るサタンにも打ち克ち、撲滅しなければならない。 つづく。

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2008年5月13日 (火)

vol.70 人の命は一寸先も分からない

 1991年6月3日。長崎県島原の普賢岳が噴火して、その火砕流は尊い43名の命を呑み込み、一気に有明海に流れ込んだ。人の命は分からない、人の明日は分からない、人の今日も分からない、一寸先も分からない……。
 若き消防団員の亡き後、その若妻が遺児と共に逞しく生きていく姿を実話を元に歌にしたのを載せておこう。

       普賢花 
 東 隆明作詞 藤山一男作曲 古川忠義編曲

  “この花は 君に似ているね”
  “あなたに見られて 嬉しそう”
  野の傍らに ひっそりと
  可憐に咲いた名もなき花に
  二人で名付けた 普賢花

  “僕について来れそうですか”
  “あなたが手を離さなければ”
  いつも歩いた山路を
  ひとりで登って行ったきり
  あなたは帰って来ないのね

  “大きな目をして 可愛いね”
  “あなたにとっても 似ているわ”
  お山の怒りに 呑みこまれ
  召されたあなたの遺し子が
  普賢の麓で はしゃいでる

  この子がいなければ きっと
  あなたの後を 追ったでしょう
  お空の彼方から いつも
  見ていて この子と私
  私は野に咲く 普賢花 
  普賢に咲いた 普賢花
  普賢に咲いた 普賢花

                          つづく。

※島原復興支援奮闘記は自著『ホント八百』
 天恵堂版に詳しく載っています 
 天恵堂03-3368-4790

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2008年4月11日 (金)

※燃ゆる愛

vol.66 出会った時だけが生きているのではない

 人生には色んな事が起きる。決して順風満帆ではない。春の様に、ポカポカと閑かな日々があったかと思うと、夏の様に暑くて息苦しく、喉が枯れ、何をやっても効率の上がらない日々がある。秋の様に何をしても上手くゆき、全てが身に着く日々がある。
 だが、思い上がっていると、やがて、突然冬がやって来る。想像もしなかった災難に遭う。何故こんな目に遭わなきゃならないのか――再起不能な迄に叩きのめされる。いっそ死んでやろうか、その方が余っ程ましだ、誰か助けてくれ―!
 人間絶体絶命のピンチに立った時、本当の真価を発揮する。地獄に落ちるも天国に登り詰めるも、本人次第である。誰も助けてくれない――何も解決しないのである。
 物事には必ず原因と結果があって、全ての出来事は善きも悪しきも当然の結果である。
 悪い結果が出た時、その原因は必ず己の中に在り、それを反省し改めれば、必ずその結果は好転する。災い転じて福となるのである。故に、災いの真っ只中にいるという事は、一大成長を遂げるチャンスを迎えているという事である。今が最高のチャンスなのである。

 人は一人では生まれて来ない、一人では生きてゆけない。
 神代の昔から人は愛し合い、仲良く生きてゆく様に創られている。人間の原点は“愛”なのだ。
 人には必ず出会いがあり、やがて別れがやって来る。楽しい付合いだと楽しい想いが、憎しみ合った付合いだと憎しみが――残る。
 出会った時だけが生きているのではない。別れた後も、全てがその人の心の中に残る。
 愛に満ちた素的な関係だと、その温もりは永遠にお互いの魂の中に宿る。

 人は人との繋がりを切ってはならない。千切れた心と心は仲々結びつかない。
 人間関係を崩壊させてはならない。人間は自然を破壊してはならない、必ず自然の大逆襲に遭う。
 広大な自然に融和して、素直に謙虚に、清々しく生きて行かねばならない。
 人生には色んな事が起きる。だがそれは全て、貴方の成長の為に起きるのだ。善きも悪しきも全て、貴方の為に在る。                つづく。 

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2008年4月 9日 (水)

第三章 豊 饒(ほうじょう)

幸福は今 手の中にある

一人で生まれて来たんじゃない
一人で生きて来たんじゃない
今 目の前に愛する人がいる
今 目の前に愛してくれる人がいる

目が見え 耳が聴こえ 人と話が出来る事に
手が足が動ける事に 人に触れる事に
家族がいる事に 友がいる事に
生きている事に ありがとう を言おう

いつも本音で語り
いつも人の事を考え 動ける
それを 一生貫こう
それが 愛 なのだ
今直ぐ出来る
今直ぐ 幸福になれる
そして 平和がやってくる

幸福は 今 手の中にある

※「東 隆明のテレフォン相談室」(一人30分以内)
  直接、話したい方の為に設けました 
    予約03-3364-1470

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2008年4月 3日 (木)

vol.65 みんなを好きに

 前生からの因縁ではなく、単なる唯の勘違いで“嫌い”と感じる場合がある。
此の場合、その人と会わない様に、関らない様にするのではなく、修業だと観念して自分を、自己を殺して積極的に接して見よう。決して喧嘩を売ってはならない。二言三言ではなく、もう少し我慢して相手の事を研究して見よう。意外な結果が出る事が多い。意外な事に気付き、大発見に繋がる事もある。相手の嫌いな部分は、実は才能であったり、形態の美醜であったり、財産の多少であったりと、敗者の妬みが原因であったり、勝者の侮蔑が原因であったりする事に気付く。この場合、自分の醜い心が惹き起している感情だから、それを恥じ反省すれば、直ぐに、即相手を“嫌い”から“好き”に転ずる事が出来る。全て自分が原因だったのだから。
 私の大好きな童謡詩人・金子みすゞの詩集の中に、こういうのがある。

  みんなを好きに

私は好きになりたいな、
何でもかんでもみいんな。

葱(ねぎ)も、トマトも、おさかなも、
残らず好きになりたいな。
 
うちのおかずは、みいんな、
母さまがおつくりなったもの。

私は好きになりたいな、
誰でもかれでもみいんな。

お醫者(いしゃ)さんでも、烏(からす)でも、
残らず好きになりたいな。

世界のものはみィんな、
神さまがおつくりなったもの。

            つづく。

※童謡詩人
 その愛と死 金子みすゞ
は東 隆明 脚本・演出でCD販売しております
及び舞台化もしておりビデオ販売もしております
ご注文は(株)東企画03-3371-6008
及び発売元クラウンレコードへ

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2008年3月14日 (金)

vol.64 因は前生、縁は現世である

 誰をも愛せる様になるには何うすれば良いか。
 誰をも愛せる様になるには、先ず“誰をも”という此のとてつもない大きなスローガンを取り外す事から始めねばならない。でなければ直ぐ挫折する。
 人は皆、自分の内に正反対のモノを持ち合わせ、共存共生しながら修業するのである。だから、必ず好きな物があれば嫌いな物があるのである。この好きと嫌いのバランスの取り方で、人から好かれたり嫌われたりと変化する。
 嫌いなモノが好きなモノより圧倒的に多いのは、修業が足りない証拠である。怠け者である。好きなモノが嫌いなモノより圧倒的に多いのは、良く修業して来た証しである。優等生である。
 優等生になるには、どの様に修業をすれば良いのか。
 先ず“誰をも”とか“全てを”という目的を捨てる事から始めなければならない。今直ぐに実行出来ない目標は、直ぐ出来ない事に気付き、自分に幻滅を感じ自己嫌悪に陥る。そして挫折して了うのである。
 先ず実行する事は、一番克服し易い“嫌い”を探(み)つけ、一番自信のある“好き”と闘わせる。当然、力の差で“好き”が勝つ。そして次次と克服し難い“嫌い”に挑戦しながら、難敵中の難敵に近付いて行くのである。
 人は、人であれ物であれ好き嫌いが有る。有って当然なのである。それが全く無ければ此の世に生まれては来ない。修業は終わっているのだ。
 軽い“嫌い”から始めよう。何故か虫の好かない人、何処と言われても良く分からないが、敢えて言えば、言葉遣い動作が気に入らないという人が居ないだろうか。これは、前生からの因縁が影響している事が多い。前生で敵同士であったか、一方的に害を受けていた事が多い。だから初対面でもムッと来る。訳も分からず反省する必要はない、前生で被害者だったのだから。でも、だからと言って前生を引き摺って復讐するというのでは、此の世で会った意味がない。人は許す為に生まれ来たのである。前生で許して上げられなかったから、今生で出会い許して上げるのである。
 因は前生、縁は現世と理解すれば良い。因で出来なかった修業を縁で達成し、人格が向上して行くのである。今生の中にも因縁が有る。生まれ来てから昨日迄が因、今日が縁である。昨日、自分に害を与えた人に今日出会ったら、それは、今日許して上げろという天のサインである。それが出来たら、その憎しみや恨みを将来に持ち越さなくて済む。幸福に一歩近付く。  つづく。

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2008年3月11日 (火)

vol.63 誰をも愛せる人は異常である

 人は人を愛する事を勉強する為に現世に生まれ、今生を修業し来世に旅立つ。
 愛の浅き者が愛を深め、今生を卒業する。優等生なら卒業する。
 然し、卒業出来ない者も数多い。幾ら勉強しても卒業出来ない、劣等生である。もっと酷いのは、生まれ来た意味も目的も知らず、知ろうともせず死していく者も数多くいる事だ。劣等生以下である。生まれ来た価値もない。そういう人は、平気で人を傷付け世の中の害になり、最後は地獄の底を這いずり阿鼻叫喚の中に死んでいく。
 人は誰も恨まれたくて、憎まれたくて生きている訳ではない。人は誰も恨みたくて、憎みたくて生きている訳ではない。
 人は誰しも愛したく生き、愛されたく生きている筈である。なのに、世の中は何故憎悪が氾濫しているのか。醜い戦いが毎日地球上を、世界中を駆け巡っているのか。
「清く正しく生きる」なんて言葉は非常に軽く、空しく聞こえて来る。清く正しくなんて言葉は死語になりつつあるのか。
 今まで立派だと思ってた人が、実はとんでもない悪人だったなんて事は日常茶飯事で、吃驚仰天する事ではない世の中になって了った。尊敬される聖職者の筈が性犯罪者であったり、人を取り締まる側の警官が罪を犯し、同じ仲間に取り締まられたりと、一体誰を信じたら良いのか分からない世の中……どんどんどんどん環境汚染と肩を並べて、人間腐敗も進んでいく。これから次代を担って行かねばならない若者達、これから生まれて来る新生児達は、何を見本として、何を目的として生きて行けば良いのか……。大人達の責任である。
 大人達よ、危機感を持たなければならない。地球を清く正しい平和な世界にする為に、今迄汚して来た大人達が、今生ある中に反省し、責任を取らねばならない。
 ゴルフをやっている場合ではない、麻雀をやっている場合ではない。子孫の為に働かねばならない。子孫に感謝される様な人生を、終り方をしなければならない。
「誰をも愛せ」とは言わない。「誰をも愛しています」と言う人がいたら、偽善者であると決めつけても良い位、自我欲の塊の様な人が圧倒的に多い。
 数学的論理から言えば、誰をも愛せる人がいたら、その人は異常である。誰をも愛せる訳がない、変人である。異常者である。困った事だと嘆いている事態ではない。
 誰をも愛せる人にならなければならない。誰をも愛せる様に努力をしなければならない。汝の敵は汝の中に有る。為せば成る……が。 つづく。

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2008年3月 5日 (水)

vol.62 人は何故動物を飼うのか

 人は人と出会い話す事に依って勉強し、成長する。色んな人に出会い、色んな事を教わる。人間は人と人との間――交流に依って人格が形成されていく。一人では決して成長しない。人間嫌い、孤独好きでは決して人格は形成されない。人が好きで好きで堪らない、という人程成長度が高いのは当然の事である。
 人は何故動物を飼うのか。動物を飼って異常に可愛がる人がいる。生来動物好きの人は、異常に可愛がる様な飼い方はしない。
 年々、ペットの異常な飼い方をする人が増えている。そういう人は人間よりもペットの方が好きなのだ。そういう人は人間よりペットの方が大事なのだ。自分の大事なペットの為なら人をも殺しかねない……正しく異常である。
 そもそもペットを飼いたがる人は自我の強い人が多い。ペットは自分の思い通りになる。自分に従ってくれる。自分を裏切らない。自分を王様に、女王様にしてくれる。自分のオモチャになってくれる。自我を傷付けず守ってくれる。非常に都合が良い。だから可愛い、愛せる、愛しくて愛しくて堪らない。
 そもそもペットを飼いたがる人は自我の弱い人が多い。人に自分の意思表示の出来ない、気の弱い人が多い。人に騙されてばかりいる人が多い。失恋ばかりしている人が多い。
 人の世は生き辛い、苦しい、疲れる。そんな時ペットの存在が助けて呉れる。その姿を、顔を見た瞬間、辛さが苦しさが疲れが吹っ飛ぶ、ペットに救われる。そして心を癒し、また世の中に飛び出していく。人とペットのとても良い関係が其処にある。と、思う人が多いだろう。確かにそれはそれで良いのだが、果してそれがベストであろうか……。決してベストではない。
 本当の愛は、本当の幸福は人と人との中に有るのである。人間不信は不幸である。人を好きになれない、人に好かれない――不幸である。だから、その不足を補う為にペットに愛を注ぎ、ペットに愛を貰い、其処から来る代理の幸福を得ても、それは何処までいっても代理である。真に深い愛ではない。幸福ではない。
 ペットと結婚は出来ない、ペットとの間に子供は出来ない。ペットに奇麗なキモノを着せても、人間ではない。ペットを幾ら苦おしいまで抱きしめても、真の喜びは生じない。
 決してペットの異常な飼い方をしてはならない。その人の成長が止まる。唯のエゴである。大事なのはペットではない、人間である。つづく。

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2008年2月15日 (金)

vol.61 人皆善也、悪皆己也

 人皆善也、悪皆己也。善き事は皆己ではなく人のお陰、悪しき事は皆己で人の所為ではない、と思える様になると腹の立つ事はなくなる。腹を立てる理由がなくなる。善き事、手柄も己ではないのだから得意になる事もない。
 自分が悪くないのに何故自分が悪い、と思わなければならないのか。悪いのは相手であって断じて私ではない、と立腹する人がいるだろう。理不尽にも殴り掛かって来た相手に立ち向かい、怪我をさせて了った。「正当防衛である。身を護る為には致し方がなかった」と言うだろう。確かにそうである。どう考えても暴行を受ける筋合はない。相手が悪い、法的にも正当防衛は認められる。
 だが、よーく考えて見よう。何故自分に襲い掛って来たのか、何故自分なのか……。
 嘗て、恨まれる様な事はしていないか。不愉快な思いをさせていないか……。無意識の中に人を傷付けているかも知れない。全く理由が見当らなくても、必ず理由がある。理由のない現象は有り得ないのだ。理由が直ぐに思い浮かばない理由程、奥が深い。罪深いものである。
 暴行を受け、抵抗も出来ず傷付けられた人がいる。「何故暴行を受けなきゃならないんだ、何て奴だ!」と相手を恨む。当然である、殴られる筋合はない、被害者である。と誰もが思うだろう。
 だが、よーく考えて見よう。一見、加害者と被害者が判然(はっきり)としていて、善悪の区別が付け易い様に思える、此の事件。実は、加害者が被害者で被害者が加害者であった、という事も多々あるのである。自分の胸に手を当てて、よーく考えて見よう。必ずその原因に突き当る。「私は絶対に悪くない」と、心を閉ざしたら原因には行き当らない。悪しき事は必ず私に在る、と思える様に訓練しなければならない。でないと、何処までいっても成長する事は出来ない。人間として伸びる事は出来ない。
 善き事も悪しき事も全て当然の結果である。自分の行動の結果である。だが、善き事が起きた時、それを自分の手柄と思わず、人様のお陰と思えれば、自然と感謝の念が湧いて来る。悪しき事が起きた時、それは全て自分の不徳と反省すれば、憎悪の念が消えていく。この訓練を続ければ、自ずと険しい顔は柔かく優しい表情となる。慈悲深い、愛に溢れた素晴らしいエネルギーを発散する様になる。人の成長は人とのコミュニケーションに依って培われる。
 さあ、今日も書を捨てて人に逢いに行こう! つづく。

 

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2008年2月 6日 (水)

vol.58 家族も幸福に出来ない人間は社会的にも屑である

 人は一人では生まれて来ない、一人では生きてゆけない。
 これは、一人の力は非力である、人は人と扶け合い乍ら生きてゆかねばならない、と説いている言葉である。自分に少し才能が有るからといって、少し成功したからといって人を蔑み、悩んでる人や苦しんでる人を見ても、助ける所か嘲り罵倒する輩がいる。人の不幸を見て幸福感に浸る、底下層の人間である。一人で生まれて来たと思っている。一人で生きてゆけると思っている。そういう人間は生涯その幸福感に浸り乍ら生きてゆける、と思い込んでいる。
 ところがどっこい、そうは行かない。必ず頭打ちが来る。悩み苦しむ時がやって来る。そんな時、誰も助けて呉れない、誰にも頼る事は出来ない。そして、惨めな淋しい人生を終えるのだ。早く気付けば良い。早く気付いて人を愛し、人に愛される人間になる様努力すれば、必ず助かる。道は拓ける。
 人は一人では生まれて来ない、一人では生きてゆけないという事を、肝に銘じて生きて行けば不幸はやって来ない。
 一家の大黒柱たる夫は、家族を幸福にしなければならない。家族を幸福に出来ない夫は失格である。家族も幸福に出来ない人間は社会的にも屑である。生きている価値も無い。家庭を持ってはいけない。それでも平気で亭主面をしている恥知らずが実に多い。
 生活費を家庭に入れない夫。家族を飢え死にさせる気か。文句を言うと殴るは蹴るはの暴力を奮う。最低を通り越して腐っている。人間ではない。
 生活費は入れても家庭に寄り付かない夫。金さえ充分に入れて置けば文句はあるまい、と外で遊びまくり、おまけに浮気までする。金さえ有れば何でも思い通りになる、金で買えないモノは無いと豪語する馬鹿。そういう思い上がりが、やがて大きくけつまずく要因となる。一文も無しになった時やっと気付くが、その時既に遅しである。家庭はとっくに壊れ妻や子は夫を見放し二度と戻っては来ない。今迄チヤホヤして呉れた人達も、蜘蛛の子を散らした様に誰も寄り付かなくなる。人は夫の懐に頭を下げ、その金にチヤホヤしていた丈なのである。人間としては始めから誰も認めてはいない。誰にも尊敬されていない所か、根っから侮蔑されていたのである。それが金の切れ目で、縁の切れ目となる。何れ寒空の公園のベンチで、カップの安酒をチビチビと呑み乍ら、朽ち果てる運命となる。拝金主義の成れの果てである。自業自得である。運命は良きも悪しきも自ら起こした行動の結果である。全て、当然の結果であり、不意にやって来るものではない。  つづく。

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2008年1月29日 (火)

□共存共生への道

vol.56 思いは地獄、想いは天国

 人の思いには二通りある。自分への思いと人への思いである。自分への思いが人への思いより勝れば勝る程、つまらない人間になる。爪に火を点して金ばかり貯める人は地獄である。友達がいない。いないというより作らない。友達を作れば付合いをしなければならない。付合いをすれば必ず経費が費かる。勿体ない。使わない金を貯め、通帳を眺めてニヤニヤしてる姿を想像して見よう。正しく地獄絵図である。
 人と付合わなければ何も成長しない。人と付合わなければホンモノの感動は生まれない。通帳の数字が増えるのに感動しているのは、余りにも貧しい。数字が増えれば増える程、心の貧しさも増える。数字の豊かさは心の貧しさを表しているのである。
 金持を見て羨むなかれ、金を持っていない貴方より遥かに貧乏なのである。
 死ぬ迄に気が付けば助かる。遅過ぎると云う事はない。気が付かなければ折角貯めた金を大病の為に病院に注ぎ込む事になる。部下に裏切られ、持ち逃げされる事になる。子供の不祥事の尻拭いに使う事になる。不慮の事故で死に使えなくなる。恨まれて殺され、使えなくなる。どれもこれも貧乏人には殆どやって来ない不幸である。
 金は貯める為にあるのではない。金は使う為にあるのである。それも自分の為より人の為に使えれば最高である。そうすれば又金が入って来る。又使う、と良い循環が繰り返され、人に愛され充実した生活が出来るから病気もしない。マイナーな出費は一つもしなくて済む。生きた、活きたお金を使える、天国の人生である。
 人の思いには二通りある。自分への思いは「思い」と書く。田は自分、土地財産を意味し、自分、金への心が中心の状態である。やがて地獄に落ちる。
 人への思いは「想い」と書き、相手への思いやり、相手の利益を望む心が中心の状態である。素晴らしい人生を送る事が出来る。天国に、幸福の頂点に登り詰める事が出来る。其処には感激がある。感動がある。
 感激の数が多い程、感動の経験が多い人程、その素晴らしさが光る。燦燦と降り注ぐ太陽の様に光り輝き、人々に幸福を与える。同じ生まれて来たのなら、そんな人間を目指す今日この頃で生きましょう。 つづく。

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2008年1月23日 (水)

vol.53 徳を積むには人に逢わねばならない

 大我大愛――その姿、その生き方そのものがホンモノの幸福であり、ホンモノの愛である。人間の頂点である。

 不幸な人は、皆例外なく自ら不幸になっている。
 自ら不幸を呼び込み、不幸を愚痴り、不幸を嘆く。
 不幸者は一様に不幸を人の所為にする。世間の所為にする。天の所為にする。自ら呼び込んでいる事を知っていても、気付いていなくても人の所為にする。そして不幸から這い出せなくなり、地獄を彷徨(さまよ)って朽ち果てる。勿体ない人生である。勿体ないという事も知らず、気付かず死して行く。そして来世に誕生する時、其処から始まる。例外なく其処から出発する。生まれついての不幸からスタートするのである。
 生まれた境遇から始まり、育つ環境も酷く、次から次と悪い事ばかりが降りかかり「何故自分ばかりがこんな目に遭うのか!」と嘆き「生きていても仕様がない、いっそ死んで了いたい、死んでやろう」と自暴自棄になる人がいる。
 私が何をしたというのか、何も悪い事はしてないじゃないか――している。
 天は、神は居ないんじゃないか――居る。
 居るとすれば実に不平等ではないか――平等です。
 ならば、どうして私を助けて呉れないのか――
 天は自ら助くる者を助く。自ら助かるには、どうすれば良いのか。
 何をしても上手くいかない――小我では助かる筈もない。自分の事でも大変なのに人の事所ではない、という考えでは永久に助からない。先ず他人事の為に働く、一生懸命働く。さすれば、それが徳となり、徳を積む事に依って、それがやがて得となって還って来る。望まなくても間違いなく還って来る。大我大欲による得は大きな財産となる。
 損して得とれ。何事も、良きも悪しきも、そのまま還って来る。
 徳を積むには人に逢わねばならない。人に接し、コミュニケーションをとる所から始めねばならない。家に引っ込んでいては何も進まない。
 徒に時が過ぎていく。限りある今生での命、明日は無いものと思い、今日、今、書を捨てて町に出よう。出会いを求めて町に出よう。  つづく。

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2008年1月22日 (火)

vol.52 ホンモノの幸福には不幸はやってこない

 愛、そして幸福……。誰もが願い求める愛、そして幸福。幸福である人が生涯幸福であり続けるとは限らない。愛する人が何時までも愛する人であるとは限らない。
 手に入れた愛と幸福は、必ずその手から洩れ落ちる。
「幸福だなあ」と思った瞬間から不幸に向かう。「最高だなあ」と思った瞬間に地獄行の切符を握って了う。それは小我だからである。人一人の幸福は小っぽけなものである。それは我が身丈のものだからだ。
 人を愛すれば、その人にも愛されたいと願う。小我である。それが叶って「幸福だ」と思う。小我である。ホンモノの愛ではない。小我による成就はニセモノである。それが証拠に愛されなくなれば、落胆する。裏切られれば怒り、憎み、それが募れば復讐に至る。ニセモノである。ホンモノの愛であれば相手を憎む筈がない。何処までも相手の幸福を願い、その人の為に尽せる筈である。一切の要求はしない。何の見返りも求めないのがホンモノの愛である。
 育ててやったのだから成人したら養ってくれ、と子供に要求する親
 養ってやってるんだから尊敬しろ、と威張る夫
 仕事をさせてやってるんだから感謝しろ、と押しつける経営者
 皆、小っぽけなニセモノである。ホンモノの幸福には程遠い。
 スクスクと育ってくれる子供に感謝し、家庭を護り自分を支えてくれる妻を敬い、一生懸命働いて事業を盛り上げてくれるスタッフに感謝しなければならないのである。
 感謝しても感謝しても感謝が足りないのが、ホンモノの心である。ホンモノの愛である。
 人を想い、人に尽し人に支えられ、人の喜びを我が喜びとした時、その人に本当の幸福がやって来る。揺るぎない幸福が建設される。
 ホンモノの幸福には不幸はやって来ない。永遠の幸福である。
 その永遠の幸福の原動力は、真に人を想う、真に人の幸福を願う、身を粉にして人の為に働ける力……愛である。
 人の喜びを見た時、人の幸福を見た時、真に喜べる力……その為には身を犠牲にしても良いと働ける力……それがホンモノの愛である。誰にでも出来る、邪魔をしてる小我さえ無くせば!
 小我さえ無くせば人の喜びを我が喜びとする事が出来る。人の喜び、人の幸福に無上の喜びを感じ、人の向上を我が事の様に喜べる……それが大我、大愛である。    つづく。

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2007年12月13日 (木)

vol.51 愛と幸福は無償のものである

 幸福を追求すればする程、幸福は逃げていく。幸福になりたいと思えば思う程幸福は遠退いていく。それは自我欲の極致だからである。それ程大きな欲張りなのである。幸福は追求するものでも、欲しがるものでもない。幸福は物理の中にはない。物理の追求、欲求の中に、例えそれが叶おうとも幸福とは無縁のものである。
 ホントの幸福には何も無い。自我を捨て果てしなく無に近い所に至福の境地がある。自我を捨て、幸福になろうと欲する事を止める所から、ホントの幸福の領域に入るのである。実に次元の高い貴い、素晴らしい人間の誕生である。
 静かな気持で、澄んだ眼で慈しみの心を以て人々を見てみよう。人々の動きを観てみよう。面白い程人の心が見えてくる。怖ろしい程人の真実が見えてくる。人の内面の良さも悪さも的確に見えてくる。人を見る判断に狂いが生じなくなる。違いの分かる、極めて正確な人間になれる。人に対して迷いは生じなくなる。
 扨、では其処からどうするか、だ。縁有って宿命として授かった出会いである。どの人もどの人も皆伸ばして上げなければならない。聴く耳を持たない人、又は聞く状況にない人間は例外である。そういう人に費やす時間は無い。今、助けなければならない人がいる。その人に全力を投じなければならない。
 愛と幸福は無償のものである。次元が高くなればなる程、無償に近づく。
 ホントの愛と幸福は限りなく無償に近い。そのエネルギーの源は何か?
 素晴らしいホンモノの愛と幸福の原動力は一体何なのか……。その原動力が見つからず、人は悩むのである。色んな本を読み、色んな教えを乞い右往左往するが、一向に見つからない。大体、教えを説いている人間自体、殆ど解っていない。解っていない人間から教わっても、何を教わっているのか判る訳がない。愛、愛、幸福、幸福と綺麗事で言葉が乱発されている丈で、何が愛で何が幸福かという、その実体すら分かっていない人が多い。実体が分かっても、そのエネルギー、その原動力が何なのかが分からなければ、旨い饅頭を見ても手を出せないのと同じである。絵に画いた饅頭である。扨、その素晴らしいエネルギー、原動力とは?   つづく。

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2007年12月12日 (水)

vol.50 ニセモノかホンモノか、一目瞭然である

 人は何も身に着けずに生まれ、一つ宛身に着け乍ら生き、何も着けずに去って行く。何も持たずに来世に旅立って行く。そして又、時を経て何も身に着けずに生まれて来る。故に現世で幾ら身に着けても、それらの物は意味なく虚しいものなのである。どうせ失くす物なら始めから持たない方が気が楽ではないか。
 其処に気が付けば、今から貴方はハッピーである。残りの人生は短かろうが長かろうが奥の深い、味わい深い素晴らしい世界になる事であろう。間違いない。
 先ず、物欲が無くなる。物欲が減少するという事は、自分への欲が無くなるという事である。自分への欲が失くなるという事は、自我愛も減少するという事である。
 ニセ伝道師に騙されてはならない。ニセ宗教家を見破らなければならない。
 彼等は挙(こぞ)って「自分を大事にしなさい」「自分を愛しなさい、自分を褒めてやりなさい」「くれぐれも御自愛を」
「自分も愛せなくて、どうして人が愛せるの」と得々と教えを説く。理に叶っていると自信満々で曰(のたま)う。ニセモノである。又は次元の低い偽善者である。妙に説得力がある。妙に魅力を感じ、人々は自分に自信を持ち――頷く。
「そうだ、自分を愛さなくちゃ、自分を大事にしなくっちゃ」と自我欲に精を出す。そんな事をしたら世の中は益々乱れ、地球破滅へと向かって行くのである。
 諸君、冷静になろう。自分の欲から離れ、醒めた目でそのニセモノを観てごらん。これ以上身に着けようが無い位、身体のあらゆる部分を飾り付け、キラキラケバケバしてはいないか。まるでクリスマスツリーの様ではないか?
 又は、食の贅を極め、振り返る首も無い位太ってはいないか? 足元が自分の腹が邪魔をして見えず、転びそうに歩いてはいないか。自我欲自己愛の成れの果である。「くれぐれも御自愛」はニセモノ達が自分の事を言っているのである。
 その者達の言葉はホンモノの愛ではない。人心を惑わし、コントロールし、自分の儲けに繋げているのである。
 ニセモノかホンモノか……見分けるのは簡単な事だと分かったと思う。
 非常に単純なものである。一目瞭然である。貴方の中から欲が無くなれば全ての真実が見えて来る。忽ちの中に見えて来る。
 貴方もホンモノの仲間入りである。  つづく。

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2007年11月27日 (火)

vol.49 友を選ぶのも運命である

 人は、それぞれの宿命の元に生きている。その人にのみ有る条件の中で生きる。その条件を変える事は出来ない。その宿命を放棄する事は出来ない。人に譲る事は尚叶わない。貴方だけのものである。
 人は出会うべき時に出合うべく出逢う。それが宿命である。その宿命にどう対応するか……。その対応を運命と言う。どう対応するかは自由である。
 出会いをチャンスと見て、その人を大事にするか、不幸と見てその人を無視するか……。それは貴方が決め、運命という行動が始まる。その行動は貴方の生き様であり、個性である。
 決めた運命を貫き通す人もあれば、途中で休憩する人もあり、引き返す人もある。それもこれも皆運命である。だから運命はどうにでもなるという事である。
 幸福も不幸も全て自分で創り、自分で壊しているのである。運命という行動に依って。だから人との出逢いが如何に大事か、という事を肝に銘じて置かねばならない。
 運命はどういう風にでも変えられる。一度決めたからと言って何がなんでも貫き通す必要はない。その道が間違っていると気が付けば、即中止して別の道を選べば良いのである。良き出会いに依る良き友が、その道標となって呉れる。
 友を選ぶのも運命である。それを間違えて悪友だったとすれば、直ちに切るか、自分が選んだ人だからと、善の道へ導く努力をすれば良い。決して、ずるずると悪の道に引き摺り込まれてはならない。
 運命は自ら切り拓いて行くものである。その運命の始まりである宿命が授けて呉れた出会い、そのチャンスを大切にしなければならない。
 善き友を持たねばならない。良き友にならねばならない。
 良い友同士は切磋琢磨して、善き道を歩み、世の中の役に立つ。
 悪い友同士は悪業を重ね、世の中の害になる。同じ一生、同じ人生なら選択は聞かれる迄もなかろう。
 縁有って地獄の底に堕ちていく人に出会ったら、貴方ならどうする?
 無視して切り捨てるか、それとも救いの手を差し伸べるか――貴方の値打が決まる。  つづく。

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2007年11月15日 (木)

vol.48 自分以外は全て勉強である

 人はそれぞれ宿命という、その人だけの条件を持っている。その人が今生で生き、死す迄の箱、パッケージを持っている。良きも悪しきも、誰も同じ事の出来ない、個性を持ったパック、人生である。素晴らしい生を与えられ、今生で生きているのだ。だから、人と自分を比べ落ち込んだり良い気になるのは、ナンセンスなのである。比べようがないものを比べても、何の意味もない事を知れば気楽になれるだろう。そんな暇が有ったら、自分以外は自分ではないのだから、非常に珍しいものと思い、自分に取り込んでいく様にしよう。
 自分以外は全て勉強である。自分ではないのだから。
 人は気が合うと、気が合った同士という事で直ぐに仲良しになる。自分と考え方や趣味、その他色んな事が似ているという事で、とても良い友達になる。そういう仲だから一生親友同士かと思うと、仲々そうでもない。何時の間にか喧嘩別れしていたり、お互いに嫌いになったり、なんとなく自然消滅している事が多い。何故だろう……。
 趣味や考え方が似ていると言っても、それは似ているのであって、全く同じ物ではない。似ていても違うものなのである。仲の良かった友も、やがて、それに気付き意見が合わなくなり、自分の意見を通そうとお互いに譲らず喧嘩になる。
 或いは、自分の方が劣っているとひがみ、自分の方が優れていると軽蔑する。絶交が待っている。
 人は、気が合わないと仲良くならない。仲良く所か会い度くもない。極端に嫌いな場合は、一生顔も見たくない。その人の名前も聞きたくない。虫酸が走る。何故だろう……。
 趣味や考え方が違うと、その人に腹が立つ。その人が自分の思い通りにならないから嫌いになる。その人の思い通りになりたくないから、衝突して喧嘩になる。
 一生分かり合えないで終るかと思うと、そうでもない。衝突して喧嘩した事に依って、自分に無いお互いの良さを発見する事が結構多い。自分に無くて、相手に有るものをお互いに認め、尊敬し、求め合うようになれば、これは一生続く。
 虫の好かない人、全く趣味の合わない人、会って話す意欲の湧かない人、そういう人達に敢えて近付いて見よう。自分の先入観念や教養が、その想定の範囲を越えて、又は覆されて、意外な展開が貴方を待っている。
 妥協は要らない。喧嘩をする積りでぶつかって見よう。  ―つづく。

 

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2007年11月 5日 (月)

vol.47 人はそれぞれの宿命という長さを持っている

 人間には、どうも出世したがる人としたがらない人がいる様だ。出世したがる人は都会型で、したがらない人は地方型、田舎型という事が出来るだろう。
 田舎型は争いを好まず、自然を愛し必要以上の物は欲しがらず、日々与えられた仕事に従事し、食に住居に満足し、仕事にも焦せらず、のんびりと一日一日が在る事に感謝して生きていくタイプである。何と素晴らしい事であろうか。故に長生きする人が多い。
 都会型は争いを好み、自然を忘れ、食に住居に満足せず、際限のない欲に駆られ、日々がむしゃらに働き、出世出世と出世街道をひた走り、一寸した事で躓(つまず)いて元も子も失くす事の多いタイプである。何と疲れる人生であろうか。故に短命の人が多い、不慮の死を遂げる人が多い。
 人はその死に方死に様で、その人のそれ迄の生き様が判かる。終り良ければ全て良し、終り悪ければ全て悪しである。
 人の生命は、人それぞれの宿命という長さを持っている。人は、その各々の短くもあり長くもある、宿命、寿命を生という出発点から、死という終点に向かって生きる。それぞれの人生を生きる。その人生をどう生きるかは、その人の自由である。その人のものである。
 都会型の争い好きは生い立ちに拠る所が多い。幼い頃貧しい家庭に生まれ、飢えと屈辱の中で育った人は、何とか出世して、豊かな暮らしがしたいと必死に働く。望み通りに成功すれば良いが、失敗しても良い暮らしに執着し、犯罪に手を染めて了う人も少なくない。
 手段を選ばず、豊かな暮らしを求めると不幸が待っている。飢えと屈辱をバネにして、それを原動力にして素晴らしい成功を収める人も多い。そういう人の立身出世談を聞くのは楽しいものである。
 人は与えられた環境をどう生きるか、本人次第で天国と地獄に分かれる。
 裕福な家庭に生まれ、何不自由なく育ち、甘やかされて生きて来た人は、人の苦しみが分からず、平気で人を傷付けて了う事がある。人を莫迦にする事がある。気付かず、或いは故意に人を不幸にする事がある。裕福で、幸福な家庭に生まれても、親が決して甘やかさず、人を想う気持、慈しみの心を確り教えなければならない。でなければ、碌でもない最低の人間になって了う。
 親馬鹿にならない様に気を付ける毎日でいましょう。――つづく。
 

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2007年11月 1日 (木)

ホンモノへの道

vol.46 一日も早い気付きの一歩

 人間はどうも矢鱈競争したがる動物である。競争があるから戦う、競争があるから頑張る。
 競争がないと働きたがらない。怠ける。競争があるから働き頑張る。競争は生き甲斐なのだ。
 競争心が強い者しか勝てない、競争心の弱い者は負け犬となって敗退していくと信じ、必死に勝組になろうと頑張ってる人が多い。
 何か、物に憑依されたかの様にガムシャラに働く姿は、まるで夜叉である。鬼である。人の生血を啜る獣である。怪しい獣である。
 元来、天はその様なものを創った訳ではない。神はその様なものを望んだ訳ではない。人間成長の為に競いの心と争いの行動を与えたのである。競いの中で、争いの後で人間はその空しさに気付き、人間本来の姿に目醒め、終極の到達点、真価へと向かい始めるのである。
 競争は或る種の必要悪である。人間は痛い思いを、熱い思いをしなければ仲々目醒めない、厄介な動物である。
 競いの心や争いの行動が如何に空しく次元の低いものであるか――を知った時、人は生きる事の本当の目的を悟る。真の人間の姿、真の人間の生き方、そのスタートラインに立つ事が出来る。此処からが出発である。何と多くの人が此のスタートラインに立つ事なく、生き地獄のまま魑魅魍魎の世界に溺れ、この世を去って行く事か……。折角、生を亨け環境を与えられ、勉強のチャンスを頂きながら……勿体ない話である。競って勝って歓喜に溢れる幸福があれば、負けて絶望に悔し涙を流す不幸がある。幸福は不幸に支えられているのである。
 何故勝って人を不幸に落としたいのか。自分丈が良ければ良いのか。
 人は仕事、スポーツ、その他趣味や境遇に於いて、どうして喜びや悲しみを分ち合う事が出来ないのだろう。どうして人の物をもぎ取ってまで幸福になろうとするのか。どうして人を踏み倒してまで出世しようとするのか……それが如何に汚く詰まらないものであり、その先に有るものが本当の幸福とは程遠い、虚しいものである事に気付いていないからである。気付きもせずに此の世を去る人は本物の不幸である。気付いてもヨボヨボになってからでは、反省する力も残ってはいない。唯々、後悔しながら死んで行くしかない。
 一日も早く気付かねばならない。一日も早く気付き、スタートラインに立たねばならない。人として、自然に融け、全ての物と共に存り、共に生きる素晴らしい道を歩き出さねばならない。          つづく。

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2007年10月11日 (木)

vol.44 縁を大事にすれば円が従いて来る

 人は人の役に立って、初めて人間と言える。自己の利益のみを大切にする輩は人間とは言わない。言えない。
 自分の欲望を満たす為なら手段を選ばず、物品のみならず人命をも平気で奪う輩は野獣である。背広にネクタイの猛獣が巷に溢れている。今や世の中は無法状態、安全と言い切れる場所は何処にもない。先進国と言われている国程、酷い状態なのである。
 今や世界は道徳も秩序も荒廃し、一体何時の時代に戻っていくのか。
 時の経過に連れて、経済も文化も進化を遂げ、人間の生活はどんどん快適になっていなければならない筈だ。人間の精神も進歩して、素晴らしい人間関係が築かれていなければならない筈だ。
 幾多の工夫と破壊を重ね、繰り返しの淘汰を経て、今や理想の世界に近付いていなければならない……筈だ。一体どうなっているのか。進歩に進歩、発展に次ぐ発展を遂げている筈が一体何処へ行こうとしているのか。誰かが歯止めを掛けなければ、地球はどんどん破滅へと突き進む。
 日に日に、凄い勢いで人間が、人間自らが地球を腐らせている。
 どうすれば良いか。先ず、我々一人一人が己の内にある獣と闘わねばならない。
 我欲という獣を退治して、人への想い、愛を培養しなければならない。そして、手を繋ぎ輪を広めて行かねばならない。
 生活に必要なのは“円”生きて行くのに必要なのは“縁”である。
 生活に金は必要であるが、それが全てではない。それ丈では生きて行けない。
 金に心を奪われてはいけない。地獄に堕ちる。
 縁を大事にして、人の為に行動すれば、やがて円も従いて来る。円が先行して縁は従いて来ない。従いて来たとしても、それは偽物である。貴方に従いて来るのではない。貴方の持っている円に従いて来てる丈である。貴方から円が失くなれば、忽ちの中に縁も居なくなる。
 金の切れ目が縁の切れ目であるが、元々そんな縁は始めから腐っている、腐れ縁なのである。
 人は皆、弱いものである。だが、弱い儘(まま)では生まれて来た意味がない。
 先ず、己の内にある獣を退治する所から、着実に始めよう。
 内なる獣。その醜い汚い猛獣と真向から戦争開始である。  つづく。

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2007年10月 6日 (土)

vol.42 人を恨めば地獄の因果が待っている

 人生はエレベーターの様なものである。自動昇降機である。上がったり下がったりと忙しい。 
 唯、自動昇降機が故に上げるも下げるも本人次第である。暫し停める事も永久に停める事も本人次第。上がりっ放しで下りて来ない事も、下がりっ放しで上がろうとしない事も、本人次第である。自由なのである。上がりたければ上がれば良い、上がり過ぎたと思えばその分下がれば良い。下がり過ぎたと思えばその分上がれば良い。止まりたければ停まれば良い。動きたければ動けば良いのである。
 人は下がると不運と思い、上がると幸運と思う。それは勘違いであり、気が付いていないので、本当は全て自分で運転しているのである。だから、幸運不運というものは存在しない。全ての現象、全ての結果は全て自分の仕掛けなのである。其処に気付けば不運を嘆く事はなくなる。幸運を跳び上がって喜ぶ事もなくなる。全ては当然の事なのである。
 人を恨むのはいけない事である。人に受けた仕打ちは、以前に自分が害を与えた結果なのである。人に加えた害に時効はない。或る日、突然返って来る。加えた人とは限らない、今生の事とは限らない。加えた害は、時空を越えて必ず本人に返って来る。加害者は被害者になる。逃げ切る事は絶対に出来ない。
 逆も真なり。人に与えた親切は、人に施した愛は返って来る。今生で、とは限らない。時空を越えて、突然、降って湧いた如くやって来る。
 人を恨んではいけない。人を恨み復讐すれば、又仕返しに遇う。恨みと復讐の因縁は永遠に続き、その人の魂は地獄を彷徨(さまよ)う事になる。
 人に辛い仕打ちを受けた時、それは、かつて自分がした事の結果であるという事に気付けば、腹は立たない。立っても静める事が出来る。否、静めねばならない。かつての加害者であると認識すれば、相手を許す事が出来る。許さねばならない。そうすれば、地獄の因果から脱け出し、新しい、素晴らしい人生に向かう事が出来る。
 何かあると直ぐ人の所為にしたり、悪口を言ったりする人、嫉妬心から人に危害を加えようとする人を見た時、貴方ならどうする? 軽蔑してお友達のリストから外しますか? それとも、人に与えた害は、必ず何処かで誰かから返って来る。人に受けた仕打ちは、必ず何処かで誰かにした仕打ちなのだ、と諭して上げますか? その前に自分が誰かを不幸にしていないか、振り返らなければならない……か。   つづく。

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2007年10月 4日 (木)

vol.41 厚化粧になればなる程、肚も黒い

 人間の本来の姿は裸である。
 人間の本当の価値は裸の姿に表われる。

 自慢話をする人は愛せないが肩書きに頼る人も底が知れて哀れである。
 自分自身に自慢出来る材料が無い人は、肩書きを持った人の名前を持ち出して来る。それによって自分もその人に近い人間だと思わせようとする。喋っている内容の八割が有名人や成功している財界人の事であれば気を付けろ。喋っている事の殆どが自慢と肩書きのミックスであれば、魂胆は判然(はっきり)として来る。それを聞いている貴方は狙われている。その素晴らしい話に埋(の)めり込むと、貴方の財産は失くなる。間違いない。
 然し、気を付けていても引っ掛かる人は引っ掛かる。その人に欲がある限り、引っ掛かる。欲が深ければ深い程引っ掛かる。欲の深い分だけ被害も大きい。
 欲の少ない人から見れば、何故あんな見え見えの、馬鹿みたいな詐欺に引っ掛かるのだろう、と不思議に思えるものである。
 人間の真贋を見分けるには、その欲を取り外せば簡単な事だが、それが一番難しい。己の欲は、募らせる事は簡単だが、削る事はなかなか難しい。削るには修業が必要だ。ならば、簡単に欺されても良いのか。欺されて月謝を払うのも良いが、出来れば欺されたくないと思う貴方、“人間の本当の価値は裸の姿である”という事を取り敢えず頭に入れて、真贋を見分けて見よう。意外と簡単に見分ける事が出来る。
 ○服装が派手ではないか。
 ○これ見よがしに装飾品をチラつかせてはいないか。
 ○矢鱈、理屈っぽく難しい言葉を使ってはいないか。
 服や飾りが少なく裸に近い程、詐欺度は低い。言葉に自慢や肩書きが少なければ少ない程詐欺度は低い。化粧も素面に近い程、心も清い。厚化粧になればなる程、肚も黒い。
 といった具合に、この程度のチェックに引っ掛かる奴は、間違いなく貴方を欺そうとしているか、自分の愚かさをカバーしようと必死に虚飾に勤しんでいる憐れな人間である。扨、貴方ならどうする? 君子危うきに近付くな、と無視するか。裸の姿に戻れ、と諭すか。その前に自分が裸にならにやいかんか……。つづく。

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2007年9月14日 (金)

vol.39 自分中心に喋るのは自信がないから

 人を大まかに見分けるのに、その人が自分中心に喋っているか否か、で判断するという、簡単な方法がある。
 内容はどうであれ、話の八割以上が自分の事ばかりの人はレベルが低い。成長しない。「私はこう思うの」「私はこうしたの、ああしたの」「私はこういう人なの」と自己表示であり、自己宣伝であり、自己営業をする人は、その行為がその思いが逆効果であるという事に気が付いていないから始末が悪い。文句を言うと「人に良く思われようとして何処が悪いの」と却って叱られる。何処から教えたら良いのか……本当は幼い頃から親が教えていなければならない事である。という事は、その親も屹度そうなのだろう。
 子を見れば親が、親を見れば子が分かるとは良く言ったものだ。
 偶(たま)に例外もある。鳶が鷹を生む訳はないが、鳶が鷹を生んだら吃驚する。「ホントにあの親の子供かい?」と不思議になる位、親子の差がある場合は例外である。大抵は子を見りゃ親が分かる。
 扨、そういう自己中心の人に縁あって出会って了ったら、関りたくないと逃げ出すか、肚の中で軽蔑して、表面は適当にあしらって置く。という対処をしている人は、人間が悪い。折角出会ったのだから、その人の欠点を直して上げようと努力しなければならない。その前に、何故自己中心に喋るのか、という原因を知っていなければ直して上げる事も出来ない。
 人が自分中心にモノを喋るのは、自分に自信がないからである。自分が不安で不安で仕様がないからである。必要以上に自己過小しているのである。だから大きく見て貰おうと、好意を持って貰おうと、時には誇張もして宣伝するのである。その自分の姿が、人にどう映っているのか全然分かっていない。分かっていないから改められないのである。誰も教えて呉れないからである。逆恨みを怖れて指摘を避ける人は、その人自体成長しない。その人も大して差がない証拠である。
 自分が安定してる人、日々充実感を持って生きている人は自己宣伝をしない。する必要がない。心に余裕があるから、じっくり人の話を聞いて上げられる。だから適切な答も出して上げられる。自己中心の人に出会ったら指摘して上げよう。愛情を以て助言して上げよう。暫くは近寄らないかも知れないが、何れは分かってくれる。   つづく。

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2007年9月13日 (木)

vol.38 放って置けない喧嘩

 そもそも喧嘩になるという事は、当事者がチョボチョボだという事である。チョボチョボとは似た者同士、程度が殆ど同じ、五十歩百歩、どんぐりの背比べといった類の間柄の事である。
 所が、厄介な事に此の当事者達、相手より自分の方が優れていると思い込んでいる。「あいつ程馬鹿じゃない」「あいつより上だ」とお互いに思い込もうとしている。だから、欠点や落度を指摘されると「お前に言われる筋合はない」「お前に言われたくない」と腹を立て、今度は相手の欠点や落度を指摘する。お互いに自分の方が立派だと思っているから、応酬がエスカレートし、口論では済まなくなり、取っ組み合い、果ては――刃傷沙汰へと悪化していく。この喧嘩は放って置けない。放って置きたいが放って置けない喧嘩である。お互いに引っ込みがつかなくなり、行き着く所まで行って了うからである。
 そもそも、貶されたり馬鹿にされたりと、口撃されて腹を立てるのは、そのものズバリ、的中しているからである。グサッと胸に突き刺さるのである。
 当っているのであれば腹を立てる必要はない。その通りなのだから、指摘してくれた事に感謝しても良い位だ。それなのに腹が立つ。五十歩百歩の相手だからだ。「あいつより俺の方が上だ、あいつに丈は負けたくない」と嫌っている相手から貶されると、当っていればいる程、自尊心が傷付き相手が憎くなる。そして応酬する。やがて、誰も見たくない、みっともない、醜い喧嘩に到って了うのである。要するに馬鹿同士が喧嘩をするのである。馬鹿同士だから喧嘩になるのである。
 面白い事に、これが日頃尊敬してる人や、レベルが明らかに自分より高い人に指摘されると、腹が立たない。素直に聞ける。感謝もする。何故だ? 指摘して呉れる人によって有難かったり腹立たしかったり……つまらん人間である。
 つまらん同志が喧嘩をするから、みっともない。
「つまらんから止めろ、お互いに傷つくだけだ」と止めて上げよう。喧嘩する程、自分の醜さを露見しているのだ、という事に気付かせて上げよう。教えて上げなきゃ分からない。喧嘩両成敗、嫌われても良いから叱って上げて、その人達を少しでも成長させよう。放って置いたら碌な事にならない。放って置けない喧嘩である。
 底に愛情のあるのは、放って置ける喧嘩。
 底に敵意や憎しみを持ち合っているのは、放って置けない喧嘩。
 そこの見分けが出来たら、放って置けない人になって欲しい。余計なお世話にはなりません。  つづく。

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2007年9月 7日 (金)

第二章 CHANCE―飛翔

人は 生まれる という奇蹟に恵まれ
    生きる というエネルギーを授かり
    出会う というチャンスを与えられる

人には必ず出会いがあり やがて別れがやって来る
出会った時だけが 生きているのではない
別れた後も 全てが その人の心の中に残る

愛に満ちた素的な関係だと その温もりは
永遠に お互いの魂の中に宿る

人と人との出会い
それは 人と人とを成長させる チャンスである
天からの素晴らしい プレゼントである




災いは出発の始発駅

vol.36 今日出来る事を見つける

 目が見え、耳が聴こえ、口が利ける……何と素晴らしき事か。
 我々は時として、その恵みを当り前の事とし、有難さを忘れがちである。
 目が見えないという事は、人の顔や姿、空の色や景色、あらゆる物が何一つ見えないという事である。
 目の自由な人が一度、丸一日目隠しをして生活して見れば分かる。全くの暗黒の中で一日生活する事は出来ない、という事に気付く。誰かに手伝って貰わなければ、歩く事も食事をする事も、何も出来ない。何が襲って来るかも分からない……自分を護る術はない。誰かに手伝って貰わなければ、誰かのお世話にならなければ、一日だって生きていく事は出来ない。
 耳が聴こえないという事は、世の中の音が何も聴こえないという事である。人の話し声とその内容。音楽、その音色と内容。物の音、風の音……何も聴こえないという事。
 口が利けないという事は、思った事を思い通りに相手に伝えられないという事である。それがどれだけ不自由な事か……。
 目を隠し、耳を塞ぎ、口を閉じて一日生活出来るだろうか。一日は疎(おろ)か、一時間も耐えられず、先ず目隠しを自ら取って了うだろう。それ程怖いものである。

 目や耳や口の不自由な人達が、一日一日、何を考え、どう生きているか……考えた事があるだろうか。この人達に引き籠りはいない。この人達に鬱病はいない。殆どいない。
 或る日突然、不自由になった時、人はそのショックで落ち込み、嘆き悲しむ。生きる気力を失くし、引き籠りがちになり、欝状態にもなる。
 だが、其処から健康で何不自由なかった頃を思い出し、如何に幸福だったかを思い知るのである。そして、不自由でも、こうして生きている、生かされている事に感謝の心が湧いて来る。生きている事の素晴らしさを知る。一日一日が、とても素的で、楽しく充実して来る。一生懸命生きようと頑張る。周囲の人に感謝し、何か人の為に役立とうと考えるようになる。今の自分に出来る事を考える。今日出来る事を見つける。それが見つかったら、始めるだけである。出来る事を出来る範囲で精一杯……其処に出発がある。再出発がある。喜びがある。天が味方をする。奇蹟が起きる。
 治る。      つづく。

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2007年8月30日 (木)

vol.35 人生はドラマである

 人生は航海であり、ドラマである。シナリオのないドラマである。
 シナリオは、本人が創る。その局面、その局面で真剣に懸命に創り、それを実践して行く様が、ドラマである。

 人生は航海であり、ドラマである
 ドラマは感動である
 感動は――愛である

 人は、どんなに予期せぬ事が我が身に起きようと、驚く事はない。それは過去に自分の取った行動の結果であるか、天が新しい試練として与えて呉れた修業なのである。 
 人は、何が起きても驚く事は何もない。
 予期せぬが故に一瞬のショックは起きても、直ぐ冷静になって対応出来るようにならねばならぬ。
 行動の結果と新しい試練という真理が分かれば、どのような事態にも対応出来るだろう。
 人生は素晴らしい。人を想う、愛の深い人の行動にはドラマが生まれる。人に勇気や希望を湧かせる原動力――感動を与える事が出来るからだ。その人の行動が愛であり、感動であり、ドラマなのだ。

  CHANCE 第一章 「航海」の終りに

    身心を改め直し
    世を浄め
    人の輪広めて  
    愛を深めん

  
 時の流れに翻弄され、長きにおいて引き裂かれし家族、一日も早く再会叶うように創った悲願歌であり、応援歌である「愛ある故に」を掲載して、第ニ章に移りたいと思う。

    愛ある故に
  作詞東隆明 作曲藤山一男 編曲古川忠義

  春を待つ 心の絆 誰か知る
  日が沈みても 心沈まぬ
  夏が来て 心枯れても 誰か知る
  日が昇りても 心昇りぬ
  秋が来て 心乱れても 誰か知る
  日が長くても 心短し
  冬が来て 心淋しくも 誰か知る
  明日在る事を 又 生きる日を

  子を想う親の心 誰も知る
  愛の深さには 海も叶わじ
  旅に出て 疲れ果てたら 誰も想う
  馳せる心は 故郷の山河
  明日は来ぬ 今日を限りに愛に生く
  短き命 又 逢う日まで

  一人では生まれて来ない
  一人では生きてゆけない
  愛ある故に 人は輝く
  一人では生まれて来ない
  一人では生きてゆけない
  愛ある故に 人は輝く
  愛ある故に 人は輝く
 
  
    拉致被害者と御家族の心痛……
    悲憤と万感の愛を込めて――再会を願う

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2007年8月28日 (火)

vol.33 健康だからと言って長生きするとは限らない

 世の中、一分一秒先に何が起きるか分からない。起きて了えば、善きも悪しきも当然の結果であるが、扨、それを読む事が出来ない。出来ないから、人はその都度ショックを受け、一喜一憂する。
 人は病に罹るまで病とは縁の無いものだと思っている。病院の前を通っても、異様な建物にしか見えない。まして、中に入っている人間は自分とは縁遠い、別世界の人達だと思っている。それが、或る日突然その建物と縁が出来る。其処の住人になったりもする。想像もしなかった事態になる。別世界から、非常に近しい無くてはならない建物となる。
 人は、病院に通ったり住人になったりしてる人より、毎日元気に動き回ったりしてる人の方が、長生き出来ると思っている。健康な人は病に罹っている人より長生きすると思い込んでいる。はてさて、そうだろうか。そうとは限らない。
 毎日、TVや新聞を賑わしている死亡記事は、当事者にとっては全く予測出来ない事態であろう。海で泳いでいて溺れ死ぬ。山に登って遭難し力尽きて死ぬ。運転をしていて激突死。火事で逃げ遅れ焼死。身に憶えが有ろうが無かろうが、銃器の手に掛かり死亡。台風、地震等による建物欠壊被害死。飛行機墜落、船の沈没による事故、遭難死……
 毎日、TVや新聞を賑わしている死亡報道。天災人災に関わらず、今日、そのニュースに報じられている人達は、まさか自分が今日死ぬとは思っていなかった人達である。毎日ニュースで見聞きして、明日は我が身と覚悟をし、遊びを楽しんだり運転をしている人は少ない。それが出来る人は、そんな死に方はしない。何時も他人事でニュースを見ているから、そういう不慮の事故に遇うのである。自分丈は大丈夫と思っている人達が、毎日死亡記事となっている。
 病院に通ったり入院している人達は、病弱が故に寿命は近いかも知れないが、今日、突然死する人は少ない。事故、遭難、殺害に遇う確率は極めて少ない。建物が丈夫故、火災、地震で死ぬ確率も低い。健康だからと言って、長生きするとは限らない。否、健康が故に早死する人が多い。命を軽視している人は、その根性の通り早く死ぬ。病院のベットで寝たきりの人から見れば、実に勿体ない話である。折角の健康な身体を粗末に扱うと、そういう結果になるという事を人は肝に銘じて置かなければならない。そして、限り有る命を、健康であろうがなかろうが、今日生かされている事に感謝して、精一杯生きなければならない。
 今日一日を大事に生きなければならない。明日は分からないのだから。つづく。

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2007年8月23日 (木)

vol.31 何時の世も救世主は存在しない

 天は悪魔を此の世に差し向けるが、救世主は差し向けない。ホンモノの救世主は何時の世も存在しない。過去も現在も未来も存在しない……。
 救世主は幻影である。宗教が編み出した手段である。人類が生み出す偉大なる依存心である。
 救世主が戦争から人間を解き放ち、平和を齎す方法を発揮出来るならば、もう、とっくに世界は平和になっている筈である。そんなものは人間社会に未来永劫存在しない、という真理にソロソロ気付く人が現れなければならない。
 他力本願の依存心ばかりを植付けられた人は、ソロソロ目覚めなければならない。救世主は居ないのだ、という事を認識する時が来ているのだ。天が悪魔を差し向け、その対称として、救世主を差し向けて呉れると信じてる間は、何度も何度も悪魔に負け、戦争に捲き込まれ、大きな犠牲を払わなければならない。地球は永久に闇の中である。
 ホントの平和に辿り着く日は、程遠い。気が遠くなる程、遠い。遠いが必ず行き着く。到達点である事にも違いはない。何故なら、我々はそのホンモノの平和に向かって生きているのだから。我々は懸命に努力して、その到達点、真の平和に一日でも早く辿り着かねばならない。でないと、怠けていると、破滅が先にやって来る。救世主等を待っている心を捨てて、一人一人が成長しなければならない。一人一人が、先ず内なる悪と戦い、それを制し、天の差し向ける悪魔と戦わなければならない。
 人類は皆兄弟で、家族であるという真理を把握した時、その愛を身に着けた時、我々は悪魔、サタンに打ち克つ事が出来る。
 住んだ環境にどんな違いがあろうが、肌の色が何色であろうが、人類は皆家族なのである。
 戦争は家族の殺し合いであり、自殺行為であるという事を、心に沁みて実感しなければ、何度でも繰り返される。
 天は悪魔を差し向けながら、人の成長を試す。何時悪魔に見向きもしない日がやって来るか……その日が来るまで、その試練は繰り返される。
 救世主は居ない。自我から脱け出した人が集まり、遅れている人を引っ張り上げる事から始まらねばならない。一人一人が救世主であり、それが集まって、雪達磨の如く、大きく大きく膨らんで、その愛が悪魔を、サタンを踏み潰す時、其処に平和が実現する。     つづく。

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2007年3月29日 (木)

vol.15 魂で勉強する人にメモはいらない

 我欲を取るには、取りたくならなければならない。取りたくもないのに取れる訳がない。厄介なのは、その我欲を取り去ろうと思う事自体、我欲であるという事である。
 「じゃあ、どうすれば良いのよ!」と、開き直る。それこそ「我」なのだ。厄介なのだ。
 では「我」を取る方法はないのか……無い。
 「じゃあ、諦めるしかないのか、せっかく勉強して来たのに」
 “はい、済いません。実は何も御座居ません” これが私の答です。
 “一寸待って、ここまで来たのだから、もう一寸待って私の話を聞いて下さい”
 字というものは読んではいけません。字を目で追い乍ら「心」で聞くんです。でないと一万冊の本を読んでも「過ぎたる三原欲」と同じ。排泄処理機である。
 皆さん、色んなセミナーに偉い先生の話を聞こうとお出ましになりますが、本と一緒で、一万回聴いても何の役にも立ちません。
 先ず、「素敵な言葉だ!」と、メモをする人がいる。忘れないようにしよう、という意識が働いていますね。忘れてしまうと勿体ないから、高いお金を払ったのだから、為になるから、我が家の家訓にしても良いと思うから……etc
 次に、壇上に上がっている先生自体、つまらん人が多い。ホンモノが少ない。メモをして貰って喜んでいる先生が多い。
 素晴らしい、と思える事は誰でも言える。偉そうな事は、素晴らしい事は誰でも言える。誰でも書ける。
 壇上で説教をしている人よりも、それを聴いている人の方が、余程次元が高いという現場を何度か見て、笑ってしまった事がやはり何度かある。
 そもそも、メモを取らなきゃいけないような言葉に“実”は有りません。
 「言の葉の多き所に実は無し」と、昔から言われているじゃないですか。
 人の心を打つ言葉というものは、人の心を奪うものです。時間を感じさせないものです。人の魂を揺さぶる言の葉です。そんな素的な言葉、話を聞いて、何故メモが必要なのか、不思議である。
 言ってみれば頭で勉強する人にはメモが不可欠、魂で勉強する人には、壇上の人の一言一句を聞き逃さない、一挙手一投足を見逃さない集中力が不可欠、という事である。メモをしている暇は無い。魂で聞いているから、素晴らしい言葉は一生忘れない。これが本当の勉強会、セミナーです。 
  さあ、これからだ――つづく

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2007年3月11日 (日)

vol.7 刑務所も病院も一緒である

 夫は焦り腐り自棄(やけ)になり、どんどん再起不能となっていく。そして遂には妻に見放され、離婚となる。不景気で倒産が相次ぐと、このケースも正比例する。こんな夫婦に病は忍び寄る。

 黙ってニコニコと普段通りに従いてくる妻、「あなたはこんな事で挫(くじ)ける人じゃないわ、頑張って」と励ます妻、夫の仕事の途(めど)がつく迄、働きに出て支える妻、「こうしたら、ああしたら」と、夫に提案し、一緒に乗り越えようとする妻――それ迄の夫婦のあり方の結果である。
 夫は妻に勇気づけられ、再建復帰に向かって懸命に頑張る。妻の愛に支えられ、感謝し、百倍の力を得て、前にも増して目覚ましい成果を上げる。完全復帰を遂げる。夫婦の絆は益々強くなる。
 人生は順風満帆ではない。その如何なる時も夫婦は一心同体、パートナーである。そんな夫婦に病は近寄らない。

 罪を犯してはならない。人を傷つければ罰が待っている。刑務所が待っている。刑務所に入ったからといって、刑期が終えたからといって、罪が消える訳ではない。償いが出来た訳ではない。唯、罰を受けた丈である。刑務中に反省し、出所後はその償いをしなければならない。償いの準備をするのが刑期という時間である。
 深い反省と償いの準備をせずに出所して社会復帰をしたら、叉、悪い事をして刑務所に入る事になる。再犯、再犯と救いようのない人間になっていく。

 病気になってはならない。病気になったら、その重さによっては仕事が出来なくなる。
 病院が待っている。刑務所も病院も一緒である。刑期が終わるまで出して貰えない。自由は束縛される。勝手な行動は出来ない。食事も不味(まず)い。朝は起こされ、夜は時間が来れば電気が消える。完全に管理統制されているのである。居心地の良い筈がない。中には稀に、居心地が良いらしく、何度も行く人がいる。天涯孤独の人である。社会から弾き飛ばされた人である。そんな人達の中に、刑務所や病院の方が天国だと、無理に罪を犯したり、怪我をして何度も戻って行く人がいるのである。言いようの無い淋しさに駆られる―― つづく。

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2007年3月 9日 (金)

vol.5夫婦喧嘩を確りする

 どんな問題でも解決のつかない事は一つもない。見栄や外聞や意地や、一人よがりの信念等全て捨て、裸になって問題に面と向かい対応すれば、必ず解決の道が拓ける。誠心誠意、真心を以て対応すれば、必死に、己れを捨てて行動すれば、必ず解決の光が見えてくる。応援者が出てくる。天が味方に付いて呉れる。そして、前にも増して素晴らしい人生を送る事が出来る。災い転じて福となる。天は自ら助くる者を助く、である。

 人は何故悩むのか。悩みが多いと病に罹る。悩みが深いと重い病に罹る。悩みが少なくなると病も減る。悩みが浅くなると病も軽くなる。
「夫婦関係が上手くいかない」と、悩んでいる人が多い。離婚する人が多くなった。離婚率は三組に一組という。昔は離婚したと聞くと、吃驚したものだが、今は誰も驚かない。離婚が市民権を得たなんて変な現象である。スムースに離婚させようとする職業もあって、繁昌しているという。
 離婚の原因は色々ある。一番多いのは浮気だろうか。夫の浮気は妻にも半分原因がある。妻の浮気は大半夫に原因がある。
 昔は親が結婚相手を決めた。今は親が相手を決めて、厭々結婚させられる、なんて話は聞いた事がない。自分で惚れて、惚れられて、相思相愛で一緒になるのである。世界で一番好きになり、一生を添い遂げようと決意して、結婚した筈である。そんな大事な人なのに何故夫は浮気をするのか。
 恋愛時代は長所ばかりをお互いに出し合うが、結婚して毎日一緒に暮らすようになると、互いの欠点が顔を出し始める。我と我が飛び出し、主張の応酬となる。夫婦喧嘩の始まりである。
 この夫婦喧嘩を確(しっか)りする事が将来の基礎固めになる。お互いの要求を余す所なく打(ぶ)つける。不満を打つける。それでお互い相容れなければ離婚となるか。否、全てを打つけ合う事によって、受け容れ易い所から受け入れ、不満や我が少しづつ少なくなっていくのである。離婚とはならない。お互いに少しづつ成長し、長い時間を費(か)けて素的な夫婦になっていくのである。
 この夫婦喧嘩を確りしないと、どうなるか。 出来ればしたくないよね― つづく

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2007年3月 8日 (木)

vol.4 焦らなければ――悩みはなくなる

 人は何故悩むのか。人は多くを望むと現実とのギャップの分だけ悩む。確かに夢とか希望は多くて大きい程良い。夢を見るのは楽しい。希望が大きい程、生活に張り合いが出る。夢と希望は現実ではないから、夢と希望である。今日明日叶うものではない。だから、その夢と希望に向かって一つ一つ努力しながら近づいて行き、やがて現実のものになるのである。その一つ一つをやらないで、一挙に目的を遂げようとするから、悩みが生じる。 
 一挙に到達出来る筈がないものを、「何とか到達する方法はないものか」と、悩む。この場合は病に罹らない。罹った方が幸福なのだが罹らない。もっと怖ろしい事になる。悪魔が忍び寄って来る。自我地獄に落ち入る。一攫千金を狙ったり、人を陥(おとしい)れる事を画策したりと、不正の道に嵌っていく。人の道を外すことになる。人を不幸にし、果ては自らを地獄の底に突き落とす。
 夢と希望が大きいのは良いが、一足飛びを考えてはいけない。其処に悩みが生じ、不幸を招く。なかなか叶わないから、やり甲斐がある。直ぐに手が届きゃ夢でも希望でもない。長い道程(みちのり)を一歩一歩、歩んでいくから、苦しくも楽しく、その一歩一歩に喜びがあるのである。例え、それが志半ばで寿命が来たとしても、進んで来たことに違いはなく、必ず来世で続きを生きる事が出来る。その資格があるのである。
 人は皆、続きを生きる。焦らず、今日の一歩が肝要である。
 焦らなければ――悩みはなくなる。

 人は何故悩むのか。人は問題が起きた時、困った困ったと、悩む。その問題から逃げたくなる。誰かに代わりに解決して貰いたくなる。逃げ出したら信用を失くす。誰かに代わりにやって貰えば軽蔑される。死にたくなる。死んだら天罰が待っている。
 死んで楽になると思ったら大間違い。遺された親族や信頼関係にあった全ての人に迷惑をかける。皆を不幸に陥れる。来世では、生まれついての不遇の人生を歩む事になる。天罰は大きい。  人生を捨ててはいけませんね― つづく。

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2007年3月 6日 (火)

vol.2 心の輝いている人には化粧は要らない

 外形を変えて悩みが解消した、という人がいる。果たして解消されたのであろうか。自分では醜いと思っていた鼻を整形して、すっきりとした鼻になった。ところが、他とのバランスが崩れて妙な顔になった。鼻だけで言えば、スッキリ御満悦。周りの人は、前の鼻の方が愛嬌があって親しみ易かったという。
 それではと、眼の整形をする。眼と鼻のお隣り同士はスッキリとして、御本人は御満悦。そうすると、眉毛と口が余計眼と鼻に融(そぐ)わなくなった。眉と口組、眼と鼻組が喧嘩をおっ始めた。どちらも一歩も譲らない。周りの人は、その妙な喧騒な顔を見て、「気味が悪い」と近付かなくなる。
 こんちくしょう!と、眉と口もいじくる。見事な美形になった。周りの人も親友までも居なくなった。表情が変になり、性格と顔が一致しなくなったのである。愛せなくなったのである。
 それでも御本人は御満悦。付き合う世界を変える。整形の顔とは知らない人達は、美人だ美人だと外形で近付いて来る。御本人は有頂天。ところが矢張りあっという間に去っていく。何か味気なく暖かみを感じないからだ。元来、本人の持っていた優しさや気配りが、チヤホヤされる事によって失われていったのである。
 外形と内面は釣り合うように出来ている。勝手にいじくればバランスを崩す。整形によって形を変える事は出来ても、それが真の美に繋がるとは限らない。何もかも変える事は出来ない。
 眼の玉は整形出来ない。眼の玉は化粧出来ない。人と対話をする時、その相手の眼を見る。見ない人もいる。余程疚しい事があるからだ。普通は相手の眼を見る。見れば直ぐ分かる。心が輝いていなければ澄んだ綺麗な眼にはならない。眼の玉は嘘をつかない。
 狸のお化けの様に眼の周りをケバケバ塗ったくっても、眼の玉は綺麗に見えない。眼の玉はその人の心を映し出している。無駄な努力である。
 心の輝いている人には化粧は要らない。化けて装う必要がないのである。眼の綺麗な人は顔も綺麗なのだ。世の中お化けが多いですねー
つづく。

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2007年3月 5日 (月)

vol.1 人は何故病に罹るのか

    過ぎたるは及ばざるが如し

 人は、その大切な人生を楽しく、美しく有意義に過ごし、幸福に天寿を全うする。筈である。
 そうである人と、そうでない人がいる。その大切な時間を無駄に過ごしたり、その殆どを病院のベッドで過ごす人もいる。
 人は何故病に罹るのか。病は厄介である。
 苦痛を伴なわない病は少ない。大抵は苦痛を伴なう。
 なりたくて病人になる人は少ない。大抵は病人になりたくない。
 人の病は痛くない。人の病は蜜の味…嗤っていると、やがて病に罹る。その時、その人の痛みが分かる。
 仕事をし過ぎると病に罹る。遅かれ早かれ病に罹る。過労は病への登竜門、否、地獄門。仕事をしなさ過ぎると病に罹る。全ての機能が働かなくなり、世間からも見放される。怠くら病は厄介病。世間の鼻摘(つま)み。
 人の話を聞かないと、耳が聴こえなくなる。耳が怠けていると、怠けた分だけ聴こえなくなる。
 人の悪口ばかり言っていると、喉が潰れて喋れなくなる。
 人を蹴飛ばすと足が動かなくなる。
 他所(よそ)の奥さんに腰を使うと腰砕けになる。
 悩みの多い人は少ない人より病に罹りやすい。悩みの深い人は息をするのを忘れている。息苦しくなって、ハッと気づき、深い溜息をつく。息を溜めると血の流れが悪くなって病に罹る。息を溜めずに金貯めろ。金も溜め過ぎると病になる。厄介である。厄介者は嫌われる。過ぎたるは及ばざるが如し。
 人は何故悩むのか。無くて七癖、七悩み。有って百癖、百悩み。
 人は誰しも大なり小なり悩みを持ったり抱えたりしている様である。外形から始まって内面、過去から始まって現在、果ては生きているかどうかも分からんのに、十年二十年先の事で悩む。   厄介なものですねえ― つづく。  

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2007年2月22日 (木)

はじめにに代えて

本日も快調!

―新たなる出会いを求めて―

                                

 東隆明とはいかなる人物なのか?!?!

 このブログで始めて知った方の為にちょっと書いてみよう。

 夜な夜な巷のスナックやら小料理屋やらに出没し、居合わせた青年、ご隠居さん、キャリアウーマンたちと冗談を言い、時にはカラオケを歌い、大真面目に語り、まるでこれが仕事とばかりにお酒を飲む。一年365日、朝まで!

 ご本人にそこらへん、聞いてみましょう。

「もしかしてアル中なの?」

「アホ!アル中なんぞじゃあねえ! わしゃ、人中だ」

「ジンチュウ???なんじゃそれ???」

「人間中毒だよ、人が好きで人に酔っているんだ」

 口ヒゲを生やし、ひょろりと細長い体型で、ニコニコと現れ、誰彼構わず、人懐っこく話をするが、瞳は心底を見透かすように鋭く光り、深く澄み渡っている。

「夜の酒場には色んな人がいる。その人たちと話ながら、美味しくお酒を頂く。コーヒー飲み乍らじゃあ、人生は語れないよ」

 タダの話好きのオッサンか、違う。実はとんでもない力を持っている。あらゆる病が快癒に向かう、誰もが眼を見張る、超能力だ。

                  

 指先で軽く擦られただけで、皮下に真赤な条が浮き上がり、メチャメチャ痛い!!!大の大人がギャーギャー喚く、指を離すと痛くも痒くもない。赤い皮下の内出血が消える頃、症状も消える。名医も薬も効かないのに、である。そしてこの力の恩恵を受けた人は実に多いのだ。          Aka3             

 興味のある方は本を読んで頂ければ詳しく書いてあるが、東隆明はこの力について、医学で重症だとか、軽症だとか、原因不明であっても不治であっても、あまり関係ない、治るべき人は治る。超能力というとまるで魔法か手品のように感じる人もいるかも知れないが、そうではない、この力は愛だ、だから誰にでも、出来るようになる可能性がある、と言うのだ。

 とにかく、皆一様に衝撃を受け、人生観までも変えていく。いや、変えざるを得ないではないか。

 さて彼は和歌山から19才で上京、俳優や演出、脚本、プロダクション経営と多忙な日々を送っていた昭和58年、天啓を享け、この超能力を授かった。そしてその日から「自分の為に生きるのをやめた」のだと言う。順風満帆、溢れんばかりの才能を開花させていたにもかかわらず、である。そして自然会という会を発足させた。

 東隆明のことを皆が会長と呼ぶのはこの自然会の会長だから。「会長」うん、これが一番しっくりしている。この後は会長で進めよう。

 そうだ、私との出会いも少し書いておかねば。今から20年以上も前に遡る。

 ある知人に紹介を受けて私は日本橋丸善に発売されたばかりの前述の本を買いに行った。『実践超能力!YOU…』ふんふん、これか。

 ひっくり返して裏表紙。???の本は「幸福行き」の切符である…と書かれた、の字が読めなかった…!(汗!)

 気を取り直してレジで1300円支払い、店の外へ。

帰宅するまで待てず、日本橋の喫茶店に座り込んで、読み始めた。

 さわりだけでもと思ったが、止まらなくなった。涙が止めどもなく溢れた。感動して、というより、勝手に身体の底から湧き上がってきた、という感じだった。もちろん傍目にはさぞおかしな光景に見えただろうが。

 これまで、なんと依存心で生きてきたことだろう…

 何でも人のせいだった…

 感謝なんて言葉、知らなかった…

 そう、思わずにおれなかった。

 何かすっきりとした晴れ晴れとした気分になって電車を乗り継ぎ家に帰った。そして私も自然会に入れてもらったのだった。

 自然会って何しているのか、普段はコミュニケーションをしている。美味しいものとお酒を頂きながら、老若男女、色んな職業、色んな経験、色んな考え方が日本中から集まって語りあう。

何時来ても、何時帰ってもいいし、眠ければ眠ってしまってもよい。お酒を飲みたくなければ、飲まなくても勿論いい。たった一つ、人が話している間、私語はしないという暗黙の不文律があるだけである。

 冗談もダジャレもポンポン出る。とにかく明るい。お世辞や慰めあいっこはしない。人を馬鹿にする人もいない。皆素直に聞き、語り、感動し、机の勉強では学べない何かを学んでいく。

 気がつくと何か、肩のあたりが軽くなって、胸がすうっとしている。目が外に開かれる、っていうのか、自分ひとりの狭い考えを突き抜けて、悩んでいたことがアホらしくなるっていうのか、な。

 皆がどんどん変わっていくのが分かった。家族が皆健康で明るくなって、隠し事がなくなり、深くがっちり絆を結びあうことが出来るようになっていった。

 職場の同僚から信頼され、親しまれ、いつも人の和の中にいた。

 家族にも尊敬されない、最も身近な人にも尊敬されない人に何が出来るというのだ。そしてそれが出来たら、今度はその力を人の為に使わなければ、というのが会長の口癖であり、信念なのだ。

 そして自然会の有志とともに、会長は1991年から雲仙普賢岳災害に苦しんでいた島原の復興支援に取り組んだ。

 一つ一つやることがハンパではない。

でっかいホテルの大広間を借りきって、励ます会やクリスマス会をやったり、唄を作ってレコード会社に働きかけて、CDを全国発売し、全国主要都市37ヶ所で普賢復興支援コンサートを開き、募金を集めて市役所や小中学校に寄付したり、島原市内にコミュニティサロンを作り、常駐者を置き、地域のコミュニケーションに貢献したり…

 お見舞い程度なら最初からやらない方がいい、やる限り、我が身として、見事に復興を遂げるまで、と私財をつぎ込みきって、大借金を背負ってまでも、10年に渡って続けられた。

 何故そこまでするのか、島原はもう終わっただろう、などと随分聞かれたそうだ。終わったのはマスコミの報道だけ、ニュースでやらなくなっただけ。噴火はいつ止むとも知れないのだ。何も解決していない。何も終わっていない。

 私も現地を何回か訪ねた。

 土石流に民家が埋まっている場所をこの眼で見た。その衝撃は大きいものだった。

 わずか前まで、そこに生活の息吹が、家族の暮らしがあった、余韻もそのままに土砂に埋もれ、静かに時を止めていた。

 私はニュースでその映像を見たが、実は何も見ていなかったのだ。

 世の為、人の為、と言葉にすればたった10秒が、実際に行動を起こすことは至難。まして何か人の役にたつなんて、とんでもなく難しいことだと知った。だからと言って実際にその場に立ち、自分の目で見、肌で感じなければ、ニュースでちょっと見た遠い遠い土地の出来事として通り過ぎていたに違いなかった。

 今思い返せば、島原の人たちには本当に多くのことを学ばせていただいたと感謝している。

 そして極最近では拉致被害者の早期帰還を後押ししようと、唄を作り、全国発売した。

 皆が心を合わせ、一丸となって盛り上がることが重要だと言う。他人事ではない、もし自分の家族だったら、と思うとじっとしておれないとも言う。長年シベリアに抑留され、一度も会うことが出来なかった父への思いと重なるものがあるのだ。

 「愛ある故に」「人生は幻」、2曲とも心洗われる、とてもいい唄だと思うので是非一度聞いてみて欲しい。

 親が子を殺し、子が親を殺す。同級生をいじめ、自殺に追い込んでしまう。警察官が学校の先生が平気で犯罪を犯し、キチガイが刃物を持って道をウロウロしている。おかしな宗教がはびこり、人心を惑わす。

 皆憑き物に憑かれたように自分のことしか考えない。自分のことしか眼中にない。

 大地震、大津波、火山噴火、ハリケーン、天災は続く…。

 心の時代、精神の時代を声高に叫ぶ頭のいい人たちは多いのだけれど…。

 今、社会の根底で、本当に壊れているものは何なのか。

 …キミはどう思う?

 会長にとって、見知らぬ土地の困った人を助けることも、難病に苦しむ人を救うことも、夜の巷に出て、袖すりあった人と語りあうことも、同じように、私には見える。今日がすべて、明日はないと思い定めて、行動している人、なのだ。

 このブログも同じである。自他共に認める機械オンチ、アナログ人間なのに、無謀すぎる、との周囲の声も聞かず、新たなる出会いを求めて。

 会長と語るのに別に構える必要はない、気楽にお酒を飲み乍ら、の気分でいい。

 年令も肩書も関係ない。心と心のふれあいに垣根はないもんね。

中には、疑り深い人も中にはいるだろう。よろしい。自分の感性、自分の心眼で見極めたまえ。それが一番大事なことだ。誰とて生かされている時間は短いのだから。

 このヒゲのオッサンはオヤジギャクも出るし、時には説教もこく。

人とは張り合わない。甘ったれた根性のやつは無視する。

 明るく前向きに、周囲の人を大事にして生きている人は必ず応援してくれる。口の利き方は少々荒っぽいかも知れないが。

しかし、君が今迄出会った多くの人とは違う、と思う事だけは予測出来る。

 くれぐれもナメて掛かるべからず、手強ぅえーぞーお!!!

                ブログ案内人 久我令子

                 

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