2008年12月12日 (金)

vol.90 人の災いは自分の災いである

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 猛威を奮った普賢岳噴火は麓の町や村を呑み込み、その火砕流は有明海に迄達した。
 農業は疎か漁業、観光業と多大な被害を蒙った雲仙・島原地方は廃墟の態を様していた。人々の心は荒み絶望感に苛まれていたが、何時迄もクヨクヨしても仕方がない。何か出来る事から、皆で手を組んで復興に向けて頑張ろうという人達が復興ビルに集まり始めた。復興ビルの屋上には「手をつなごう、愛ある故に人は輝く」と大きく書かれた看板が掲げられている。その看板に吸い寄せられる様に人が集まり、連日の様に復興実現の為の策が練られ、実行されて行ったのである。(詳しくは拙著「ホント八百」に記述)
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 普賢岳噴火に依る火砕流は、地震学者の測定結果に依り完全終息宣言が出された。
 丸五年の月日が流れていた。やっと自分の土地に帰れた人達は家屋の修復や家業の立て直しと、復興の道を目覚しい勢いで遂げて行った。人々の目は輝き生き生きとしている。
 人は死ぬ思いをして、生きる喜びを知る。死にたいと思って、生きたいと思う。生き延びて生の尊さを知る。
 災い転じて福と為す。災いを享けて、始めて人の情を知る。人の有難さを知る。
 見ず知らずの人達が励ましの手紙や寄付を送って呉れた事を、決して忘れてはならない。
 人の災いは自分の災いである。他人事ではない、我が事として人を助けねばならない。
そうすれば、そうする事が我が魂の磨きとなり、大きな大きな広い広い人間に成長して行くのである。
 暖かい心、そして清き心が地域を救う。その愛が大きくなって――やがて、地球を救う。
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 雲仙普賢岳噴火に依る被災は、島原市長の「完全復興宣言」に依って幕を閉じた。
 実に、男の予想通り、丸十年を経ての復興であった。
 道路や橋や建物は修復され、美しい水や緑に恵まれた、風光明媚な、ふる里が復活した。観光客も戻り、人も町も活気に溢れ、前にも増して素晴らしい国と成ったのである。
 復興宣言の翌日、男とその仲間達は普賢を去った。十年の想い出と共に、島原地方から消えた。      つづく。
 

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2008年12月 4日 (木)

vol.89 普賢は鳴り止まない

 普賢の火砕流は何時止むのか……。地質学者や地震学者が幾ら調査や研究を重ねても、その終息を予測する事が出来ない。被災者が自分の土地や家に帰れるのは一体何時の日か……。仮設住宅に犇き合って暮らす家族の絶望に近い不安が、来る日も来る日も来る年も来る年も続く。
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 本腰の入った男とその仲間は、町の外れにビルを借り「復興ビル」と名付け、復興の為の「コミュニティサロン」とした。一階がサロン、二階が研修室、三階が宿泊も出来る休憩室。
 このビルは二十四時間営業で、復興に関する会合、慰安、研修は全て無料、経費は自然会持ち。常駐のスタッフを置き、復興ビルは日夜雲仙、島原の人達の為に、その終息の日迄働き続けたのである。

 被災前まで大きな家に住んでいた人達は、狭い部屋で肌を寄せ合って生きていく中で、その影響が二つに別れて行った。
 今迄コミュニケーションの少なかった家庭は話す事が多くなり、家族間の誤解が解け、お互いの良さを発見し、愛が深まり絆を強めていった。
 逆に、お互いの厭な所が噴出し、顔も見たくなくなり、口も利かなくなった家族も多くなっていった。部屋が狭く逃げ込む場所もない。このまま行けば家族分裂、家庭の崩壊は目の前である。壊れた家庭、荒んだ心の復興は、橋や道路や家屋の復興とは比べ様もない程難しい。
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 男とその仲間は被災者の仮設住宅を訪ね、家族、家族の一人一人の中に深く深く入り込んでいった。他人事ではない、我が事として入り込んでいった。
 然し、被災者はその奉仕を始めから素直に受け容れた訳ではなかった。此の連中には何か目的がある。魂胆がある。只の優しさでこんな事が出来る訳がない。魂胆がある筈だ。宗教か?右翼?何かを売り付ける気か?……。
 自分ならこんな事はしない。否、出来ないと思う人は、他人もそうだと思い疑念を抱くものである。だが、それも無理からぬ事である。現に被災者を食いものにしようとする輩が現われては消えて行ったのである。見返りを求めない、ホンモノの奉仕に落胆はない。めげる事がない。いつしか、疑り深い人達も次第に心を開き、何でも相談して呉れる様になって行った。普賢は鳴り止まない……。 つづく。

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