2009年2月 4日 (水)

vol.96 メッセージ5 求めなく、与える事の人生――黄金に輝く

 若くして、宝の子を授かった父・母は、人間として未だ未だ未熟な中に子育てが始まる。ああでもない、こうでもないと迷ったり、戸惑ったりし乍ら、その経験の中から色んな事を学び、その子も、父母も共に成長して行く。家庭の教育とは、共に育つ事である。共育である。
 父・母は子供に軽蔑される様な生き方をしてはならない。其処に育った子は、父母を尊敬し、父母に憧れ、父母に追いつき、追い越せる人間にならなければならない。我が子が立派になる為には、父・母自らが立派である事が絶対の条件である。自分達が良い見本手本になれずに、子供に立派になれという身勝手な親が多い。だが、それでも、そんな悪条件でも立派になる子もいる。困難と悪条件を乗り越え、それをバネにして、克服して立派に成長する人もいる。鳶が鷹を生んだ例えにもある。
 親が子供に軽蔑され、軽視されるという事は、親失格を意味する。人間失格を意味する。子供に尊敬されない親は、子供に愛されない親は親ではない、親とは呼べない。大きな態度で親面をしてはならない。恥じて、反省して、人間として魅力のある生き方をする様、努力しなければならない。さすれば、子供の不信感は去り、愛される親に成れるだろう。そうならなければ生きている意味も無い。
 親の深い愛に包まれ、スクスクと育った子は、暖かい心と清い心に溢れている。人を思い遣る心と、人への感謝の心、人を愛する気持が全身に溢れ、その全てを自然に、無理なく駆使する事が出来る。親の手柄である。本人の手柄である。それ以上の成功はない。天晴である。
 人は俗っぽい競争心や名誉欲を少なくしなければならない。捨てなければならない。
 人は食欲、性欲、物欲を少なくしなければならない。必要以上のモノを求めると不幸に陥る。病が待っている。憎悪が待っている。破局が、地獄が待っている。
 求めなければ落胆はない。病もない、憎悪もない、破局も地獄も無縁である。
 求めなければ何時も平穏でいられる。焦燥感に苛まれる事も絶望する事もない。
 求めなければ、与える事が出来る。与える事しか残らない。与える事しかなければ、結果は喜びしかない。喜びに満ち溢れた毎日を送る事が出来る。
 求めなく与える事の出来る人生。それは人間の最高の目的、究極の幸福、本当の、ホンモノの生きる道である。
       その人生は、黄金に輝く――
         ホンモノの王道である。    つづく。

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2008年4月30日 (水)

vol.67 幸福は今、手の中にある

 人生はドラマである。人生は感動である。感動のない人生は人間とは言えない。感動は人と人との触れ合いの中にある。そのコミュニケーションの中にある。
 物理の中にホンモノの感動はない。新築の家が建って嬉しいのは、感動ではない。その時だけの喜びである。住居に慣れると、もっと豪華な家が羨ましくなる。倒産の憂き目に遭うと、抵当に入れ、やがて失くして了う。
 事業に成功しても家庭を顧みないと妻も子も離れて了う。どんなに立派な家でも家族が憎しみ合っていたら、何の意味もない。
 荒屋(あばらや)で家族が犇(ひしめ)き合っていても、其処にコミュニケーションが有れば、温かい心が通じていれば、その家庭には何時も笑いがいっぱい、明るくて楽しい……幸福な家庭である。どんな豪邸よりも大邸宅である。
 物理の豊かさと、心の豊かさは必ずしも一致しない。物理の高さと人間の高さは必ずしも一致しない。否、寧ろ反比例する事の方が多い。一億円儲ければ二億円欲しくなる。二億円儲ければ五億円、五億儲ければ十億と、際限がない――何時も寒しい貧しい心である。安らぎのない不幸な人生である。
 人は誰しも幸福になりたいと思っている。幸福になろう、幸福になろうと不幸になっているのである。わざわざ不幸になっているのである。今ある現状を嘆き悲しんでいるのである。
 幸福は今、手の中にある事を知らなければならない。自分の欲と現実との差、そのギャップが不幸なのである。欲を小さくすればする程、そのギャップはなくなり、今直ぐにでも幸福になれる、今直ぐにである。
 生かされている事に感動し、歩ける事に感謝する。目が見える事に、耳が聴こえる事に、人と話が出来る事に、人の心に触れる事に、家族がいる事に、友がいる事に……生きている事に感謝する。それ以上何を求めると言うのか……。
 一人で生まれて来たんじゃない、一人で生きて来たんじゃない。何も求めなくても、今のままで幸福であるという事が分かれば、それ以上の出来事は全て喜びで、人の事も一生懸命考えて上げられる様になる。
 人を楽しくすれば自分も楽しくなる。人を喜ばせれば自分にも喜びがやって来る。その為には人が好きでなくてはならない。好き嫌いがある中は人間としてレベルが低い。自分に都合の良い人だけが好きだから、嫌いな人が生じるのである。その嫌いな部分は自分の中にある。 つづく。

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2008年2月15日 (金)

vol.61 人皆善也、悪皆己也

 人皆善也、悪皆己也。善き事は皆己ではなく人のお陰、悪しき事は皆己で人の所為ではない、と思える様になると腹の立つ事はなくなる。腹を立てる理由がなくなる。善き事、手柄も己ではないのだから得意になる事もない。
 自分が悪くないのに何故自分が悪い、と思わなければならないのか。悪いのは相手であって断じて私ではない、と立腹する人がいるだろう。理不尽にも殴り掛かって来た相手に立ち向かい、怪我をさせて了った。「正当防衛である。身を護る為には致し方がなかった」と言うだろう。確かにそうである。どう考えても暴行を受ける筋合はない。相手が悪い、法的にも正当防衛は認められる。
 だが、よーく考えて見よう。何故自分に襲い掛って来たのか、何故自分なのか……。
 嘗て、恨まれる様な事はしていないか。不愉快な思いをさせていないか……。無意識の中に人を傷付けているかも知れない。全く理由が見当らなくても、必ず理由がある。理由のない現象は有り得ないのだ。理由が直ぐに思い浮かばない理由程、奥が深い。罪深いものである。
 暴行を受け、抵抗も出来ず傷付けられた人がいる。「何故暴行を受けなきゃならないんだ、何て奴だ!」と相手を恨む。当然である、殴られる筋合はない、被害者である。と誰もが思うだろう。
 だが、よーく考えて見よう。一見、加害者と被害者が判然(はっきり)としていて、善悪の区別が付け易い様に思える、此の事件。実は、加害者が被害者で被害者が加害者であった、という事も多々あるのである。自分の胸に手を当てて、よーく考えて見よう。必ずその原因に突き当る。「私は絶対に悪くない」と、心を閉ざしたら原因には行き当らない。悪しき事は必ず私に在る、と思える様に訓練しなければならない。でないと、何処までいっても成長する事は出来ない。人間として伸びる事は出来ない。
 善き事も悪しき事も全て当然の結果である。自分の行動の結果である。だが、善き事が起きた時、それを自分の手柄と思わず、人様のお陰と思えれば、自然と感謝の念が湧いて来る。悪しき事が起きた時、それは全て自分の不徳と反省すれば、憎悪の念が消えていく。この訓練を続ければ、自ずと険しい顔は柔かく優しい表情となる。慈悲深い、愛に溢れた素晴らしいエネルギーを発散する様になる。人の成長は人とのコミュニケーションに依って培われる。
 さあ、今日も書を捨てて人に逢いに行こう! つづく。

 

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2008年1月31日 (木)

vol.57 幸福の起源は家庭にある

  幸福の起源は家庭にある。其処に生活する家族にある。
 不幸の起源も家庭にある。其処で生活する家族にある。
 家庭、家族次第で人は幸福になり不幸になる。ならば、幸福になった方が良いに決まっているのに不幸な家庭が多い。何故不幸な家庭を作って了うのか……。
 壊れる家庭の大きな原因は夫にある。夫は大黒柱。此の大黒柱が弱いと家は崩れる。多少の弱さだと妻や子等の協力で支える事も出来るが、弱過ぎるとそれも叶わず壊れて了う。
 強くて逞しい、立派な大黒柱であれば、その家庭は笑い声の絶えない素晴らしい家庭である。だが世間、強くて逞しく甲斐性のある夫ばかりではない。そんな素晴らしい夫ばかりであったら、世の中犯罪は無くなるだろう。一家の主たる夫の不甲斐なさが家族の信頼を失くし、家庭を崩し、やがて世間を壊して了うのである。
 夫の責任は重大だが、弱ければ致し方ない。その弱い部分を妻が補わなければならない。妻が補い、二人合わせて一人前となる。内助の功である。それでも足りなければ子供達の協力が得られる。一生懸命家族の為に頑張っている父母の姿を見て、協力しない子供はいない。一家、家族一丸となって造り上げて行く、素晴らしい家庭である。大黒柱は居なくても良い。全員で支え合う、逞しい愛の柱に叶うものはない。絶対壊れない、素晴らしい家庭が其処にある。
 夫にとって一番大切な妻、妻なくして家庭は創れないのだから、妻なくして家族は、子供は出来ないのだから、何と言っても一番大事な妻……。
 その妻一人をも幸福に出来ない奴は人間失格である。情の薄い、愛の何たるかも知らないエゴイズムである。そんな人間に何等かの、人も羨む才能が有ったとしても、又どんなにその才能を発揮したとしても、人々を幸福に導くものではない。導けるものではない。根底に愛がないからである。
 愛の原動力を持たない才能は、魂の入っていない仏像と同じである。そんな人間が一国の主、首相や大統領になったら大変である。忽ちにして国は混乱し、やがては戦争に突入する。たった一人の妻、たった一つの家庭家族も幸福に出来ない人間に、国を護る事は勿論出来ない。
 国民の飢え等意にも介さない。貧富の差はどんどん開き、自殺者も増え続ける。家庭家族を大切にしない人間を主にしてはならない。長にしてはならない。指導者にしてはならない。責任は我々一人一人にある。  つづく。

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2007年10月10日 (水)

vol.43 自然七訓は血流を良くする

 当り前の事を言うと「何だ、当り前じゃないか」と馬鹿にした様に鼻を白ませて言う人がいる。それは、その人が莫迦なのである。当り前の事が全然出来ていない人に限って、当り前を馬鹿にする。当り前がどれ程難しい事であるかが、全く判っていないのである。小難しい理屈を捏ねて「俺は頭が良いんだ」と思い込んでいる人には教えて上げよう、忠告して上げよう。
「貴方の言ってる事は生活実態のない、実行の伴わない唯の屁理屈である」と。
 当り前の事とは自然の事である。その自然から外れた、アブノーマルな言動は、変わっていて、興味を引くものであるかも知れないが、破壊の精神である。いずれ、破壊、破滅へと向かう。間違いない。
 当り前の哲理は人間の基本である。基本であり、それを修得する事はその人を素晴らしい人間へと創り上げていく。当り前の生き方は基本であり、その完成は究極の到達点でもある。俗に言う悟りの域なのである。
 私の著した本の中に自然七訓というのがある。此処で紹介して置こう。

       自然(じねん)七訓
一、自然(じねん)とは自然(自念)の事である
二、自然とは当然(あたりまえ)の事である
三、自然とは自らを然(しか)りとする事である
四、自然とは己れを捨てて人の為に念ずる事である
五、自然とは今日を生き明日死する事である
六、自然とは大我大欲を以て生きる事である
七、自然とは全宇宙の摂理に融け込む事である
  (詳しくは(株)企画出版天恵堂版『ホント八百』参照)

 この七訓を朝、顔を洗う時洗面台に貼って置いて唱えて下さい。
 歯を磨き顔を洗い終ったら、先ず洗面鏡に向かって、にっこり笑い、七訓を朗々と楽しく唱え、唱え終ったらもう一度鏡に向かって、にっこり笑って見よう。笑顔が変化している筈だ。血流が良くなり、頭がスッキリして来る。スッキリして来なければ、もう一度唱和、笑顔。
 これで万全だ。今日も一日楽しく頑張ろう! つづく。

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2007年10月 3日 (水)

vol.40 自慢話に神様はいない

“自分中心に喋る”のは自信がなさ過ぎる人と、もう一つ、自信があり過ぎる人に多く見られる。喋る事の八割以上が自己表示の、自信のない人には閉口するが、自信過剰の人の話はもっと酷い。ヘドが出る思いを経験した人も多いだろう。結構あちこちにそういう人が居る。自分もそうならない様に気を付けねば……。
 この自信過剰の人は、放って置けば、そのまま成長が止まり、やがて人間として腐って了う。駄目になりたくなかったら自慢をしない事だ。
 自慢話をする人には、少なくとも好感は持てない。所が、好感を持つ人がいる。持てる人がいる。
 好感を持てる人は、その人と同じ道を目指す人であり、とても叶わぬと羨望の目で見ている人である。それならば分かる。そういう人には自慢話は通用する。喜ばれる。
 自慢話の根っこは自己満足である。「あなたは素晴らしいですね」「凄いですね」と言われて、言わせて、自分に大満悦するのである。御本人は気が付かないが、一寸引いて、その人を見ると何と小っぽけな、下らない人間かが分かる。
 腕力の弱い人間が強い人間に憧れると、強い人間は気を良くして、自慢話をする。武勇伝が始まる。「あの時は何人やっつけた」「大男をあっという間に倒した」と、手柄話が佳境に入ると、益々興奮し憧れからヒーローへと登り詰める。
 一生懸命働けど、働けど生活は楽にならず、何時も金に困っている人は、短期間に大金持になった人に憧れると、大金持は気を良くして自慢話をする。頭の良さをひけらかす。その出世談に、憧れから信奉となり、神格化されていく。
 金儲けに神様はいない。経営に神様は存在しない。何故なら、儲ける者がいれば、必ず一方で損をする者がいるからである。平等なる神は、どちらにも味方しない。金儲けの神頼みは、無駄の骨頂である事を知らねばならない。
 腕力や暴力を嫌う人は、武勇伝には何の興味も示さない。幾ら、俺は強いんだと誇示しても軽蔑される丈である。
 物欲金欲の少ない人に、幾ら俺は大金持ちだと自慢しても哀れまれる丈である。
 自慢話は、本当の価値を知らない人にしか通用しない。借金だらけで四苦八苦している人を集め、私は一億円持っていると言うから威張れる。が、十億円持っている人の所へ行って、一億円持ってると威張れはしまい。
 自慢とは弱者や貧者に勇気を与える所か、馬鹿にして優越感に浸り、その人達を益々貧者に、不幸にして行くものなのである。注意して上げよう……つづく。

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2007年9月11日 (火)

vol.37 放って置ける喧嘩

 人は生きている間、何度か喧嘩に出合う。喧嘩にも色々ある。
 意地の張り合いで、ソッポを向き、お互いに口を利かない喧嘩。こういう喧嘩に出合ったら、放って置くのが良い。放って置くと、そのまま縁切れになって了う直前、そのスレスレまで放って置くと良い。ま、大抵は其処まで行かずに仲直りするものである。意地を張ったり、ソッポを向くのは、お互い好き合っている証拠である。適当に楽しんで喧嘩をしている事を見抜き、放って置く事である。下手に仲介に入って仲良くさせようとすると逆恨みされる事になる。余計なお世話は却って人や自分を不幸にする。
「夫婦喧嘩と北風は夜凪(よなぎ)がする」という諺の通り、朝喧嘩をしていても夜には仲良くなっているものである。夫婦に限らず、良い仲の喧嘩はそういうものだ。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という諺もある。仲介に入るのは愚の骨頂。
「喧嘩する程仲が良い」というのが、普通の夫婦であり親友関係である。
 お互いに腹蔵なく言いたい事を言い合う仲、其処に生ずる喧嘩は、喧嘩ではなく、喧嘩という形を借りた、お互いの愛の表現であり、すればする程、愛が深まって行くものである。
 喧嘩をしない夫婦、何時も仲の良い友。出会いから死ぬまで、その様な夫婦や友人関係は存在しない。いたら、それは嘘である。仮面の夫婦である。世間に対し、仲の良い夫婦や友人関係を演じている丈である。いずれ仮面が剥がれる。熟年の離婚も、その一例である。
 言いたい事を言い合って、思う存分喧嘩して、最大の原因である誤解や自我が融けていく。その喧嘩の繰返しの中で、お互いに成長していく。愛が深まり、誤解が無くなり、喧嘩のネタが皆無になって、本当の仲の良い夫婦になるのである。言いたい事の言い合える、幾ら言っても喧嘩にならない友になるのである。
 妥協したり、我慢したりして保っている関係はホンモノではない。いずれ破綻する。 
 夫婦であれ、友であれ、仕事関係であれ、本当に愛しているならば本音でぶつかる事である。結果を心配するな。愛の下敷があれば大いに喧嘩すべきである。その相手とは必ず一生の付合いになる。貴方の大事な大事な人である。貴方の貴重な財産である。来世に繰越しの出来る財産である。    つづく。 

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2007年8月29日 (水)

vol.34 迫り来る戦争にストップを

 人生は航海である。後悔ではない。寿命という船に乗って、次の港、来世に向かい航海という修業の旅に出るのである。どんな旅になるか。それは本人次第である。
 幸福の荷を運ぶ、天使の航海なのか、不幸の荷を運ぶ悪魔の航海なのか。そして、只只迷い、漂流して海の藻屑となる航海なのか……色んな航海がある。人、それぞれの航海がある。それは、人それぞれの今生での寿命であり、修業である。
 人それぞれの寿命であり修業であるが、今生に遣わされた限り、進歩して来世に向かわなければならない、人それぞれの進歩を遂げねばならない。
 素的な人とは、どんな人であろうか。自画自讃は素的とは言わない。自己中心の人は素的とは言わない。巨万の富を得ていても素的とは言わない、それを人の為に使わない限り、素的とは言わない。
 
 何事にも 何人にも
     想いは深く  考え貴(たか)く
     視野広くして  情に篤し

 何時も人の幸福を願い、世界の平和に貢献している人の姿である。
 居乍らにして世界を観、憂い喜び怒り悲しみ、人々の為に念ずる事の出来る素的な人、そんな素的な人にならねばならぬ。その為に我々は現世に生まれて来たのだ。
 素的な人が集まって愛のエネルギーを増幅すれば、次第にその数が増え、強大な力となって、悪魔を追い払う事が出来るかも知れない。でなければ地球は破滅して了う。
 天災と人災によって地球は壊滅する。戦争は人災である。産業による環境汚染よりも、戦争の方が最たる環境破壊である。
 それは自然破壊であり、自分達で創った建造物をも消し去り、尊い人命をも奪って了う。其処へ天災が戒めの如く襲って来る。人災の上に覆い被さる様に襲って来る。
 素的にならなければ、そして素的な人を探さなければ……
 急がねばならない。素的な人と素的な人が集まって、大きなエネルギーとなって悪魔と戦わねばならない。迫り来る戦争にストップを掛けねば……つづく。

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2007年8月22日 (水)

vol.30 その人の本性は隠す必要もなく顕れている

 人は余裕が有るから人の事を考え、慈しみ、施す事が出来る。
 だが、自分に火の粉が降り掛かって来たらどうだろう。そんな時、人の事を考えていられるか。自分に降り掛かる火の粉を払うのに精いっぱいになり、人の事等何処かに飛んで了いはしないか。
 自分が貧に窮した時、それまで有ったと思われる慈悲の心は跡形も失くなり、自分の欲を満たす為にのみ奔走し、遂には人の物まで欲しくなりはしないか。
 
 人の心は、人の魂は状況に応じて仏や神にもなれば、鬼や悪魔にもなる。善と悪が同居する「人」という動物、厄介な動物である。

 人は究極の事態に面した時、本性が露呈する。善きも悪しきも、夢中になった時、その人の本体が飛び出して来る。

 人は普段、魂(本性・本体)を心(学習による教養)というオブラートに包んで生きている。その魂は普段、心の奥に隠れてはいるが、よーく見ると心の表面に滲み出ている……隠そうとしても、隠した積りでも滲み出ているのである。観察力の有る、洞察力の深い人は、それを発見出来る。服装や飾りの言動に惑わされる人は、修業が足りない。次元が低い。

 自分が貧に窮していても、人の事を想い、自分の事を後にして人の為に奔走している人を見た事があるだろうか。その人こそホンモノである。その人こそホンモノに近い人である。その人にも有る善と悪の比率、善の部分が悪より遥かに多い人、魂の高尚なる人、次元の高い人である。ホンモノである。二重顎や太鼓腹、高級車に乗って豪邸に住む人はニセモノである。それ丈で自我を優先している証しである。
 その人の本性は、隠す必要もなく顕れているものです、よーく観れば。
 天は人の内なる善と悪、その善が悪に打ち克つ為に、我々を今生で修業させて呉れているのである。
 その善をホンモノにする為に、天は悪魔、サタンを差し向ける。戦争という大きな犠牲を払って、人類は勉強しなければならないのである。  つづく。

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2007年8月10日 (金)

vol.28 人の命を奪う権利は人には無い

 人は生まれて来た限り、生きる権利がある。
 人は現世に生まれ、その与えられた肉体を駆使して今生を生き抜き、その寿命を全うする。
 その短くも長い人生を、その寿命まで生きる権利がある。その権利を自ら放棄してはならない。自ら放棄すると、直ぐに後悔する事になる。肉体の無い、自己表現の出来ない透明人間に何が出来ると言うのか。幽霊となって現世を彷徨うだけなのである。苦悩と後悔だけの魂が延々と現世を彷徨する。
 ましてや、人の命を奪ってはならない。如何なる理由があっても人の命を奪ってはならない。
 人の命を奪う権利は人には無い。天に与えられた命(肉体)は、その本人が天に返すものなのである。人が代りに返すものではない。その様な権利は与えられていない、誰にも。
 復讐で人の命を奪ってはならない。意味が無い。悪業を働いたのは、その人間の肉体ではない。その人間に宿っている魂なのである。肉体を滅ぼしても魂を滅ぼしてはいないのである。意味が無い。八つ当りしているようなものである。
 魂に罰を加える事が出来るのは天のみである。天に全てを任せておけば良いのだ。必ず天罰が下る。
 物欲で人の命を奪ってはならない。金品欲しさに人を襲い、金品のみならず、その人の命をも奪って了う。極悪非道の所業……その罪は重い。その穢れた魂は、何度生れ変わって来ても償いの人生を課せられる。延々と不遇の人生を強いられる。
 その場凌ぎの短絡な衝動で人の命や金品を奪えば、その直後から恐ろしい天罰がやって来る。犯罪は割に合わないという事を知らねばならない。
 肉欲で人を凌辱してはならない。無理矢理人を襲い性欲を満たしてはならない。その魂は人ではなく野獣のものである。性交渉は同意以外には成立しない。同意以外の性交渉は人の行為に非ず、悪意に満ちた汚ない行為なのである。人を襲って肉体を凌辱しても、人の心の伴わないものは人形を襲っているのと何等変りはない。何の意味もない。然し、襲われた人は身も心も傷つき、生涯その恐怖と人間不信に苛まれて生きて行かねばならない……。その罪は重い。生れ変って来て自分の行った十倍も二十倍も凌辱を受ける事になる。
 人は生まれて来た限り生きる権利がある。その命を、生んだ親だからといって、子を殺してはならない。
 どんな理由があろうと、子は親を殺してはならない。その大恩ある親の命を奪ってはならない。その罪は限りなく重い……つづく。

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2007年8月 6日 (月)

vol.27 死とは借り物の肉体との決別である

 人は生まれて来る限り、生きる義務がある。
 人は生まれて来た限り、生きる権利がある。
 人は何故その義務を放棄して自殺をするのか。どんなに辛い、どんなに苦しい状況に追い込まれても、人は自殺をしてはならない。自殺をすると楽になる、現世の苦から解き放たれるという誘惑に駆られ、自殺をする。自分の犯した罪を死を以て償おうと自殺をする。
 自殺をしても何も楽にならず、何の償いにもならないと言う事を知らねばならない。
 人は皆、魂で生きているのである。人の本体は魂である。人の魂は未来永劫、永遠と生き続ける。魂は現世に、その与えられた肉体を借りて生き続ける。与えられた肉体を通じて修業をする。
 生とは魂であり、永遠のものであり、死とは借り物の肉体との決別である。
 この借り物の肉体は皆条件が違う。一緒の物は一つもない。その短くもあり長くもある“寿命”を持った肉体との決別が、今生での死である。
 今生での別れと同時に、魂は来世へと向かう。続きを生きるのである。
 魂は今生での肉体に出逢い、宿り、その肉体を通じて様々な事を勉強させて貰うのである。魂は肉体に宿らない限り人になれず、成長する事も出来ない。その与えられた借り物の肉体を粗末にして、寿命前に病死したり、自殺をしてはならない。魂の修業の場を、その期限まで使わず、あろう事か自ら縮めたり、消滅するという事がどういう事か…その怖ろしさを知らねばならない。
 良い物を与えても大事にしない人には、次には良い物を与えたくなくなるだろう。
 良い事をして上げても感謝の足りない人には、何もして上げたくなくなるだろう。
 今生での肉体を粗末にした魂は、来世で“感謝”を勉強する為に不具、不自由の肉体に宿る。その不自由な肉体の中から生きる喜びを知る。与えられた命(肉体)に感謝する。どんな状況でも、どんな条件でも生きる義務がある事を学ぶ。決して与えられた肉体を粗末にしたり、自ら消滅させてはならない事を知る。知らねばならないのだ。
 今生での苦難は全て自分が行った事の結果だから、必ず自分でその苦難を乗り越える事が出来る。自分の尻は自分で拭わねばならぬ。誰も拭いてはくれない。その努力もせず、その肉体を殺したら、その後に恐ろしい天罰が待っている事を知らねばならない。今生での修業は、その与えられた肉体で寿命まで、自ら縮める事なく懸命に生きる事にある。決して逃げてはならない。必ず解決の道がある事を信じ、寿命まで生き抜こう!
  つづく

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2007年7月25日 (水)

人は何故生まれて来たか

vol.26 人は様々な人生を送る

 人は何故生まれて来るのか。他の生物と同様、生殖の為のみに生まれて来るのか…否。
 人は何故生きるのか。他の生物同様、食欲性欲睡眠欲の為のみに生きるのか…否。
 人は一人で生まれ来て一人で死して行くのか……否。
 人は生まれ来る時、生まれて来たくて生まれ来るのか……否。生まれたくないのに生まれて来るのか……否。人は何故生まれて来るのか……

 何故生まれて来たのか、を知らずに生きていく人は不幸である。
 何故生きて来たのか、を知らずに死んでいく人は不幸である。
 人は何故死にゆくのか、を知らずに死ぬ人は不幸である。

 その子は両親の生殖行為によって、母親の胎内に宿る。 
 その子は胎内で育ち、やがて世に誕生する。その誕生から死までの時間を人生という。
 その子がどういう人生を送るかは、此のスタートラインの“誕生”が大きく大きく関わり、左右する。
 両親が愛し合い、周りにも祝福され、恵まれた形でその子は誕生する。幸福のスタートラインである。
 両親に愛がなく、周りにも反対され、不遇の形でその子は誕生する。不幸のスタートラインである。
 人は様々な誕生をし、様々な人生を送る。人は皆違うのである。人と自分を比べてはならない。同じ人生を送るのではないから比べ様がない。
 同じ様な境遇の、幸福な誕生をした人達が、皆幸福な人生を送るとは限らない。どう生きるかによって幸福になるか、不幸になって地獄に堕ちるか……それはその人自身の生き様の結果である。
 他力によって人は幸福になる事はない。幸運とは、自分が招いた結果なのである。
 他力によって人は不幸になる事はない。不運とは、自分が招いた結果なのだ。
 全ての原因は自分だから、幸も不幸も人と比べ様がない。比べても全く意味がないのである。人を羨んでいる人は其処が分かっていないのだ。たった今から羨むという汚い心を捨てて見よう。霞んでいた眼がスッキリして、身も心も軽くなってる自分に気付くだろう。人はわざわざ自分で自分を“厭な奴”にしているのである。     つづく

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2007年7月 4日 (水)

vol.25 自我の湾から漕ぎ出そう

 人は皆、自我という湾から漕ぎ出して、愛という大海に船出しなければならない。我欲という自縛に捕われ、一生湾から出られない人が多い。多過ぎる。最も悲しい事は、その事に何の疑いも持っていないという事だ。自分の為に生きて何処が悪い、自分を大切にして何処が可笑しい、自己確立を目指すのは素晴らしい事ではないか。信じられるのは自分だけだ。贅沢がしたい、そして人を見下したい。どんな方法でも良い、金を持った者が勝ちだ。人の幸福より、自分の幸福の方が先だ……。
 食欲、性欲、物欲…それがエスカレートしていくと様々な不幸を巻き起す。優越感、劣等感から始まり、嫉妬憎悪が増幅され、名誉欲征服欲が深まり、騙し合い略奪し合い、殺し合い…やがて、大きな戦争へと埋没していく。限りない破滅へと向かっていくのである。全て、欲という湾から脱け出せない結果である。
 湾内で我と我が戦っていてはいけない。湾岸で睨み合っていてはいけない。
 我々は地球一家の家族である。家族同士で争ってはいけない。
 今、正に腐りつつある自我という凶器が、一個一個の家庭内で、夫が妻に、妻が夫に、親が子に、子が親に、そして隣人へと猛威を奮い、日常茶飯事で殺戮が頻発しているのである。
 愈々、人類滅亡、自滅の危機がやって来たのか。否否、そんな訳はない。確かに人類存亡の危機をも感じさせる出来事が多い。然しそれは一握りの人間の仕業に過ぎない。一握りの悪業に過ぎない。
 確かに一握りの悪業の影響は大きい。簡単に人を殺し、沢山な人を不幸に陥れる。
 それに比べ善業は、目立たない。一人の善業の影響は小さい。沢山の人を幸福に導くには非力であり、その上地味で気が遠くなる程の時間が費かる。が、その忘我と自己犠牲の精神に溢れた人達が、自我の湾から脱け出して世界のあちこちで活躍している。その数は日に日に、見る見る増え続けているのだ。人種、年令の違いを越えて、天使達は何処にでも出没し、ボランティア活動に生命を捧げている。一人一人の力は小さいが、この大きな運動は、やがて地球を綺麗にし、滅亡から救ってくれるだろう…。
 自我地獄に陥っている諸君、病気に罹っている暇はない。
 自分の事で精一杯なんて言ってるから病に罹るのだ。
 今こそ、自らの力で自我湾から脱け出して、愛の大海に漕ぎ出そう。
 其処には本当の人生がある。
 其処にはホンモノの世界がある。
                      つづく。

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2007年7月 2日 (月)

vol.24 人生は幸福の荷を運ぶ航海…

       人の世は短く長く
      ひたすらに
      生きてこそある 今のやすらぎ

 人生は短くもあり長くもある。一日一日が充実していて中身の濃い毎日を送っている人には人生は短いだろう。その人の寿命が来た時、自他共に短いと実感する。
 寿命というものは誰にもやって来る。唯、短いか長いか丈である。一日一日がつまらなく、中身の薄い毎日を送っている人には、人生は長いだろう。その人の寿命が来た時、自他共に長いと実感する。それで良い。それで良い筈だ。
 いつも人の為を想い、いつも人の為に動ける人は素晴らしい。必ず尊敬され、感謝される。そういう人に寿命が来た時、人々は「惜しい人を失くした」と言う。もっともっと役に立って欲しいからだ。もっともっとその人に要求したいからだ。人は欲が深い。死しても未だ要求する。だから本人も、もっともっと役に立ちたいのに「残念」と息を引き取る。その人の人生は自他共に短い。
 いつも自分の為を思い、いつも自分の為に動く人は醜い。必ず軽蔑され、憎まれる。そういう人に寿命が来た時、人々は「ああ、やっと死んだか」と言う。もっともっと早く死んで欲しかったからだ。死して初めて人に安らぎを与える。人に喜ばれない人生は、つまらなく長い。短くても長い。自他共に長い。
 
       人は裸で生れ来て
      何も持たずに死して逝く

 物理物理を追い掛けて、我欲を幾ら満たしても、何も持っていく事は出来ない。人の心に何も残す事は出来ない。死すると同時に「あっ」という間に忘れられて了う。それ位に短く軽い人生なのである。
 人の為に生きた人は、人々に一杯感動を与え、尊敬と感謝に包まれ、抱え込めない程の幸福を持って、次に旅立つ。その人にとって、人生は幸福の荷を運ぶ航海なのだ。
 人の世の長短は、人の心の長短である。その人の寿命は誰も知らない。天のみぞ知る。人の未来は一分一秒先の事も分からない。分かったような事を言う輩は、占いも含めて、全てインチキである。一分一秒先が分からないから、明日死するかも知れないから、今日が大事なのである。今日を充実させなければならないのである。
 今生明死……。今生明死については追い追い理解出来るだろう。
   扨、今宵もひたすらに、人を想い酒を汲む…か。  つづく。

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2007年6月11日 (月)

vol.23 浮気に時効はない

 自我からの脱出は結構難しい。宗教家が何十年と修業しても脱出出来る人が果して何人いるか。まして巷の、魑魅魍魎の競争社会にあっては至極至難の技である。俺が俺が、俺は俺はと自己主張し、人を撥ね除け、踏み潰しても勝つ為に生き残る為に、生命を賭けて戦う。
 企業戦士、頭脳戦士に明日はない。心の平安、平和はない。頭の中は数字ばかりが飛び交って、人間本来持っている素晴らしい感性を置き去りにし、何とも得体の知れない怪物と化していく。そして退職した時、幼少期のままストップしている感性に気付き愕然とする。何も成長していない自分にやっと気付くのである。そして、追討ちを掛ける様に妻から離縁状を突き付けられる。
「何故だ、何処が悪いんだ? 俺は妻や子、家族の為に必死に頑張って来たんだ。何故こんな仕打ちを受けなければならないんだ!」と叫びたくなる。
「不自由のない生活が出来るのは、一体誰のお陰なんだ。感謝はされても不満や恨みを持たれる事は何もない筈だ」と、腹の立つのを越えて泣きたくなってくる。
 勘違いに気付かなければならない。でないと本当に離婚されて了う。
 結婚して家庭を持った限り、家族の為に働くのは当たり前の事である。義務である。家族を養い、生活を安定させるのは夫として、人間としての最低の条件である。感謝を要求する程のものではない。家族の為家族の為と言って、実は自分の事業欲の為ではなかったか。競争社会で戦う事に生き甲斐を持っていたのではないか。それが証拠に、リタイアした途端、何をしたら良いか分からなくなる。何かしたくても、出来るものが見つからない。無能な自分を発見する。此処で勘違いに気付かなければならない。
 仕事に夢中になる余り、妻や子を思う気持が足りなくはなかったか。妻や子が何を考えているか、理解出来ていただろうか。妻や子を本当に幸福にしたいと思って来ただろうか……。
 満点であれば親子の断絶はない。引き籠りの子にはならない。離縁状は突き付けられない。家族を裏切って浮気をした事はないか。もう随分昔の事だ、と思っていたら大間違い。浮気は家族全体への裏切りである。家庭の崩壊へと繋がる。決して許して貰えるものではない。事業の信用よりも家族の信頼は修復が遥かに難しい。夫の家族への裏切りは時効のない罪となって墓に入ってまでも償わされる。命日には家族が墓前で手を合わせ、ぶつぶつ、ぶつぶつとお経ではなく文句を垂れる。本人死しても永遠と文句を言われるのである。
 自己中心で生きて来た罰である。  自我からの脱出は難しい――つづく。

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2007年5月30日 (水)

vol.22 人間はどんどん平和から遠退いていく

 人は平和を求めている。戦争のない世界を構築したいと思っている。人類、皆平和で、幸福でありますようにと、誰しも願っていると貴方も思うだろう。
 果して本当に皆が皆そう思っているだろうか。真に心底からそう願っていると言えるだろうか。国と国とが武器を駆使して戦い合う事を戦争と言ってるのではなかろうか。
 勿論、それは多大な犠牲を出す大きな戦争である。起きてはならないものである。
 国と国との戦争も元はと言えば、個と個の衝突ぶつかりから始まる。国を引っ張るリーダーとリーダーの喧嘩から始まり、そしてその取巻きの一握りの人間達が、国民を捲き込んで戦争へと突き進んで了うのである。元はといえば個である。
 どうも人間というのは競争心、闘争心が強い。動物だから当り前と言えば当り前だが、この競争心、闘争心が戦争を生み出す根源だとすれば、それが消滅しない限り人間社会から戦争はなくならないだろう。永遠に平和は来ないだろう。
 この地球に生きる人間全員が仏やキリストの次元に到達しない限り、平和にはなり得ない。
 人は平和を願っていると言い乍ら、その反面競い合い闘う事に燃えている。
 スポーツもそうである。オリンピックもかつては「参加する事に意義がある」と勝敗は兎も角、フェアにお互いの力を出し切り、その祭典を通じて国と国との交流を深めたのである。が、今や「勝たねば意味がない」「金メダル以外はメダルではない」と、勝つ事のみに専念している。これはもう戦争である。勝つ事のみを称賛する国民が、選手を闘争心の塊にして了っているのだ。
 受験もそうである。学歴社会が受験戦争で子供達を地獄へ引き摺り込む。
 人は勝敗の渦に捲き込まれ、勝組になろうと必死に戦い、勝てば驕り、敗ければ卑屈になり、地べたを這い摺り回る。
 人は平和を願っていると言い乍ら、日常で戦争をしているのである。親が子を、子が親を殺し、兄弟間の争いも日常茶飯事で行われている。道を歩けば普通に見える人間がいきなり襲って来る。家の中にいても突然の乱入者に金品を取られ、命をも奪われる。国が国を侵略する事だけが侵略ではない。侵略は個と個の間で日常茶飯事起きているのである。アメリカでは成人は皆拳銃所持を許されている。自分以外は皆敵と思えと言ってるようなものである。
 人間はどんどん平和から遠退いていく。世の中は殺戮と病が蔓延し、地球全体を滅亡へと追い込んでいく。  救われる道は、助かる方法は……つづく。

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2007年5月14日 (月)

vol.21 ホンモノを求めてはいけない

 才能と人間性は別物であるという事が解っただろうか。才能が有るから素晴らしい人だと決めつけてはいけない。欺されてはいけない。
 だが、才能と人間性が一致すればどうだろう。心・技・体がそろって素晴らしければ、これはホンモノである。
 此のホンモノ中のホンモノは結構沢山居る。路傍の石の如く、ゴロゴロと貴方の身近に居る。沢山居るが誰がホンモノか見つける事が出来ない人が多い。
 見る目が無ければ見つける事は出来ない。自我欲、自己中心の曇った汚れた目には、目の前にホンモノがいても判らない。ホンモノであればある程、見極めるのが難しい事も事実である。
 ホンモノであればある程目立たない本質を持っている。ホンモノは質素である。
 ホンモノに飾りはなく、限りなく無に近い。ホンモノであればある程、只の人なのである。
 ホンモノを求める人は、その求める事自体ニセモノである。求めれば求める程、ホンモノが分からなくなる。目の前に居ても分からない。もし分かったとしたら逃げ出して了うだろう。求めていた曲に逃げ出して了うだろう。自分が恥ずかしくて、自分にはホンモノになる資格は無いと逃げ出して了う。
 ホンモノはホンモノを求めない。ホンモノだから求める必要がない。ホンモノは誰をも愛する。誰をも差別しないから殊更にホンモノを求めない。ホンモノは何も求めない。
 ホンモノは与える事のみ考え、実行する。叉はそうしようと日々努力している人がホンモノなのである。何時も人が先で、自分が後の人である。人の喜びを自分の悦びとし、人の悲しみを自分の哀しみと出来る人である。
 自己顕示欲の強い人は到底ホンモノにはなれない。有名になりたい人、贅沢をしたい人、人の物を奪ってでも欲しがる人……こういう人はホンモノとは縁遠い。自分の物を人に与えたり譲る位なら死んだ方が良いという様な輩は生きながら死んでいる。その自己愛、自我欲の塊は人を傷つけ、不幸にする。害人である。
 ホンモノを求めてはいけない。自分がホンモノにならねばならぬ。ホンモノを見つけても自分がホンモノになれる訳ではない。ホンモノの本質をしっかり見極め、自我を少しずつ少なくしていく訓練を、日々怠らず実践していく事しか方法は無い。それがホンモノへの道、唯一の人間修業なのである。一つ一つ捨ててゆく事の難しさ……ホンモノは自分の裡にある。  貴方に出来るかな――つづく。

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2007年5月 1日 (火)

vol.20 才能と人間性は別物である

 人は皆、素的になりたいと思っている。人は皆、素晴らしい人生を送りたいと思っている。と、思いますか? 素的な人間、素晴らしい人生を誤解してはいませんか? 自分にとって都合の良い素的であり、素晴らしい、ではありませんか?
 本当の素的、本当の素晴らしさを知った時、多くの人はその望みを捨てる。素的にはなりたくない。素晴らしく生きたくはないのだ。
 本当の素的、本当の素晴らしさを本当に望むようになるには時間が費かる。望まないから時間が費かる。生涯望まないで死んでゆく人が多い。死ぬ間際にやっと望む人がいる。遅い。

 人は素的になればなる程、「我」が取れていく。素晴らしくなればなる程、「我」が少なくなっていく。その人の中に自己への欲が住み着けなくなって行くのだ。
 多くの人は有名になりたいと思う。卓越した才能を持った人を素的だと思う。卓越した才能を発揮すれば有名になり、人々の羨望の的となり、自分もなりたいと思う。その人が目標で、希望で、勇気となる。素晴らしい事である。とても良い事である。
 が、それが純粋な尊敬で、憧れで、目標なのと、唯、その人のように有名になりたい、唯、その人のように卓越した才能を発揮したいと思うのでは、天と地程の違いがある事を知らなければならない。
 卓越した才能(技術)の持主が、卓越した人格者であるとは限らない。
 才能に溺れて身を持ち崩していく人が多い。素晴らしい才能と素晴らしい人とは必ずしも一致しないのである。
 では、何故素晴らしい才能を持ちながら、身を持ち崩して終(しま)うのか。
 それは目標の源、根本が間違っているからである。
 有名になって人々の羨望の的になりたいという名誉欲、それによって得る富という物欲、この二つの柱によって建った城は、その“小我”という小さな城は、やがて崩れる運命にある。
 多くの人は名誉と富を美と考え、目標とする。多くの人は金さえ有れば何でも買える。買えないものは何一つない、と豪語する。そして、その瞬間から奈落の底へ真っしぐらに落ちていくのである。落ちてから、落ちた事に気付き、落ち込む。只の馬鹿である。人間としては未だ幼稚園にも行けない。幼稚児なのである。
 ホンモノ探しはこれからだ――つづく。

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2007年4月24日 (火)

vol.19 生まれて来た時は皆五十歩百歩

 病の本体が“気”であると知る事は出来ても、本当に理解出来る人は少ない。
 風邪を引いて高熱に苦しむと、矢張り一生懸命薬を飲んで治そうとする。病院に駆け込んで注射に依って熱を下げようとする。いざ、となると結局依存心が優先する。
 病は、その人の「気」の欠点を体に示して教えて呉れているのである。これが真に理解出来て、始めて回復へと向かう事が出来る。
 病に限らず、仕事や人間関係で上手くいかない事が起きると、予期せぬ受難と嘆く人がいる。「自分は何も悪い事をしていないのに、何故?」と疑問に思う。そして遂には、人や巡り合わせや、天の所為(せい)にする。どうしても自分が悪いのだという事を、認めようとしない。それどころか、自分の欠点に気付きもせず、他や天に迄責任を押し付ける。貴方もそういう人を見た事があるだろう。これはなかなか重症です。相当叱ってやらないと気付かない。中途半端だと逆恨みされて了う。相当(かなり)の情熱を以って叱ってやるか、時間が費かっても良いから、本人が素直になる迄待つしかない。中途半端は絶対に駄目である。
 良い結果が出れば全て自分の手柄、悪い結果が出ると全て他人の所為、なんて性格の人は愛せない。愛せないどころか友達にはなりたくないだろう。然し、放って置いたら自業自得で自滅するか、他に害を及ぼす。自己中心の生き方は周囲を不幸に巻き込む。
 誰しも、人を不幸にする嫌われ者にはなりたくないだろう。
 誰にも相手にされなくなって、やっと気付くのは厭だろう。
 自己嫌悪に苛まれ自殺したくなる迄陥りたくないだろう。
 ならば、どうすれば良いか。
 何時も自分が嫌われ者ではないだろうか。人の役に立っているだろうか、と点検する事である。そして、心当りがあれば直ぐに反省し、謝罪し、是正する。そうすれば、大病大難に至らずに済む。人を傷付けずに済む。其処に成長がある。
 人は皆、完成された人間として今生に来たのではない。皆、欠点だらけで生まれて来ているのだ。生まれて来た時は五十歩百歩、大差はない。
 完成されてれば今生には来ない。皆、欠点だらけだから今生に修業に来ているのである。
 人は、どう修業し、どう生きるかで差が付き始める。
 短くもあり、長くもある人生。その一日一日をどう生きるかで、人の値打が変わってくる。差がどんどん付き始める。それがやがて大差となり天と地程違ってくる。
 貴方は天か地か、どっちを選びますか――つづく。

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2007年4月 6日 (金)

病・自我からの脱出

vol.17 病に罹るのは当たり前

 人は誰しも病に罹りたくはない。罹りたくはないが罹ってしまう。
 人は誰しも聖人君子ではない。清濁を合わせ持ち、その両極を行ったり来たりしながら世の大海を泳ぎ、喘ぎ、疲れ……病に罹る。病に罹らず生涯を、長寿を全う出来る人は少ない。また、出来たとしても、果たしてそういう人が本当に素晴らしい人と言えるだろうか。
 生まれついての聖人君子はいない。前生からの徳を一杯持って生まれて来たとしても、今生でそれを全て駆使出来る訳ではない。全ての人にその徳が当て嵌まるとは限らない。
 何十億という、今生きている人には、その数だけ生き方がある。血液型のように四通りと決まっていれば、こんな簡単な事はない。干支や星座占いのように、十二通りで生き方や人生が決まっていれば、こんな簡単な事はない。
 全て、何十億個、個性が違う。似ている事は多々あっても、全く同じという事はない。似て非なるものである。だから、人生は楽しく素晴らしいのだ。人工的にクローン人間なるものを造ったら、間違いなく人類は破滅する。皆違うから、それぞれの考え方、生き方があり、それぞれの個性が磨かれ、光り輝くのである。
 生まれ乍らの人格者というものは面白くも何ともない。人は悩み挫折する。失敗して転げ落ちる。そして、其処から這い上がって来て、味のある、魅力のある人間に成長していくのである。挫折するから人の悩みが分かり、失敗するから人の苦しみが分かる。
 病に罹らなければ病の辛さは分からない。病に罹らなければ健康の有難みが分からない。
 だからといって有難みが分かる為に、わざわざ病に罹る事はない。病に罹らなくとも有難みが分かる方法はある。幾つかあるが、それはもう一寸後に述べる事にする。
 取り敢えず、病に罹ってしまったらどうするか、だ。
 罹ってしまったら仕様がない。クヨクヨしても仕様がない。クヨクヨ悩むと病の思うツボ、どんどん攻め込んで来て、どんどん悪化する。そして、這い上がる事の出来ない地獄へと落ちていくのである。
 病に罹ったら、病に罹るのが当然と思う事。
「え? 何故? 何故私が病に罹るの? そんな馬鹿な!」と驚き、まるで強盗に丸裸にされたかのように嘆き、喚く人がいる。自分だけは病に罹らない、と過信している人に多い。バカは貴方だ。
 どんなバカか――つづく。

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2007年3月30日 (金)

vol.16 我欲のエネルギーを他欲のエネルギーに

 言葉を言葉で憶えてはいけない。そこから伝わって来るものを、心に刻まなければならない。心に沁み込ませる――それが心にメモを取るという事である。でなければ身に付かない。何の役にも立たない。
 自分の為にする勉強は、それ自体が我欲であり、人にとっては「害」である。
 人の役に立つ為の勉強は、それ自体他欲であり、人にとっては「感謝」となる。
 「我」と「他」では天と地ほどの差がある。
 我欲を取るのは、本当は、そんなに難しい事ではない。取ろうとするから難しい。坊さんのように、修業すれば修業するほど難しくなり、自滅するか諦めてしまう人が多い。
 我欲(I.MY.ME)を取るには、我欲を少なくするには、その分他欲(YOU.YOUR.YOU)を多くすれば良い。または、我欲のエネルギーを他欲のエネルギーに転換すれば良い。我欲に生きて来た人にとって素晴らしい発見になるだろう。今迄とは違う感覚を味わうだろう。真の喜びを知るだろう。
 我欲の喜びは束の間のものであり、他欲の喜びは深く広く、永遠のものである。真の幸福を掴む事が出来る。病気にはならない。病が発生しない。発生する原因がない。
 
 人は何故病に罹るのか――。
 風邪は万病の元という。馬鹿にしていると他の病を併発し、やがて死に至たる。
 風邪は心のすきま風、油断していると忍び寄ってくる。邪まな風が吹いてくる。邪まな心に吹いてくる。風邪を引いたら即反省して、自我欲から他欲に転換しなければならない。そうすれば大病に到る前に回復する事が出来る。
 人は何故病に罹るのか。人への愛より、自分への愛が深いと、その分、病を生み、繁殖させてしまうのである。「不幸にも病に罹る」という事はない。有り得ない。全て、自ら原因を造っているのである。
 勝手に風に乗って不幸はやって来ない。全て、自分の裡なる、自分が吹かしている風(風邪)なのである。
 邪まなるものは、自分の中に停どまらず、風に乗って人に移ってゆく……害である。
 逆もまた真なり。他欲に満ちたその愛は、風に乗って人に宿り、人々を幸福にする。素晴らしいエネルギーである。
 病に罹ってしまったらどうするか――つづく。

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2007年3月29日 (木)

vol.15 魂で勉強する人にメモはいらない

 我欲を取るには、取りたくならなければならない。取りたくもないのに取れる訳がない。厄介なのは、その我欲を取り去ろうと思う事自体、我欲であるという事である。
 「じゃあ、どうすれば良いのよ!」と、開き直る。それこそ「我」なのだ。厄介なのだ。
 では「我」を取る方法はないのか……無い。
 「じゃあ、諦めるしかないのか、せっかく勉強して来たのに」
 “はい、済いません。実は何も御座居ません” これが私の答です。
 “一寸待って、ここまで来たのだから、もう一寸待って私の話を聞いて下さい”
 字というものは読んではいけません。字を目で追い乍ら「心」で聞くんです。でないと一万冊の本を読んでも「過ぎたる三原欲」と同じ。排泄処理機である。
 皆さん、色んなセミナーに偉い先生の話を聞こうとお出ましになりますが、本と一緒で、一万回聴いても何の役にも立ちません。
 先ず、「素敵な言葉だ!」と、メモをする人がいる。忘れないようにしよう、という意識が働いていますね。忘れてしまうと勿体ないから、高いお金を払ったのだから、為になるから、我が家の家訓にしても良いと思うから……etc
 次に、壇上に上がっている先生自体、つまらん人が多い。ホンモノが少ない。メモをして貰って喜んでいる先生が多い。
 素晴らしい、と思える事は誰でも言える。偉そうな事は、素晴らしい事は誰でも言える。誰でも書ける。
 壇上で説教をしている人よりも、それを聴いている人の方が、余程次元が高いという現場を何度か見て、笑ってしまった事がやはり何度かある。
 そもそも、メモを取らなきゃいけないような言葉に“実”は有りません。
 「言の葉の多き所に実は無し」と、昔から言われているじゃないですか。
 人の心を打つ言葉というものは、人の心を奪うものです。時間を感じさせないものです。人の魂を揺さぶる言の葉です。そんな素的な言葉、話を聞いて、何故メモが必要なのか、不思議である。
 言ってみれば頭で勉強する人にはメモが不可欠、魂で勉強する人には、壇上の人の一言一句を聞き逃さない、一挙手一投足を見逃さない集中力が不可欠、という事である。メモをしている暇は無い。魂で聞いているから、素晴らしい言葉は一生忘れない。これが本当の勉強会、セミナーです。 
  さあ、これからだ――つづく

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2007年3月17日 (土)

vol.13 人間は他の動物に劣る

 自我欲に生きると病に罹る。遅かれ早かれ病に罹る。
 人を不幸に陥れると、やがて病に罹る。やがて不幸になる。その罪の重さに比例して病に罹る。
「自分の為のみに生きては駄目だ」というと、反論が殺到する。はてさて……。
 どうも人間という動物には競争や闘争の好きな人が多い。多過ぎる。
 血湧き、肉躍(おど)るというのか、競争・闘争となると活き活きして来るのである。どうして、そんなに勝ち負けに拘(こだわ)るのでしょうか。勝っては歓喜し、負けては悄気込む勝負の心理。勝っては相手に優越感を抱き、負けては屈辱感に苛まれる。それによって勇気や根性が養われる。不撓不屈(ふとうふくつ)の精神が培われる、という……。はてさて面妖な。養われて培われるのは勝とうという闘争心だけである。やがて戦争へと向かう恐ろしさに気付いていない恐ろしさである。
 他の動物達は自分や家族を護る為に闘い、生活、生きる為に襲い、糧を得て生き延びる。其処にひたすらなものがある。自然の摂理がある。
 
 どうも人間は自分の持ち物に満足せず、他人の物まで欲しがる人が多いようだ。どうも他の動物のように、その日暮らしが出来ない人が多いようだ。
 いつまで生きているか分からないのに、人の物を奪ってでも十年、二十年、百年先の糧まで備蓄しようとする。そうしないと安心出来ない、という心の貧しさである。
 必要以上の金を欲しがる醜い人間が多い。こういった馬鹿は、その馬鹿さに、その醜さに気付くまで、時間が費かる。否、生きている間に目覚める事もなく、今生を落第して、冥土にいってしまう人も多い。せっかく与えられた今生での命、今生での修業を無駄に費やして終わる……愚かな人間の如何に多い事か。次元の低さというより病、大いなる病である。
 
 食欲、性欲、海水浴、じゃない快睡欲。この、動物界の無くてはならない、生きる為の三原欲。この三つの欲は、ある程度満たされなければなるまい。仙人ではあるまいし、霞を食って生きる事は普通の人では出来ない。餓死してしまう。
 生きる為の最低限の条件、三原欲は生きとし生けるものの権利であり、自然界の摂理である。
 ここからが問題だよ―― つづく。 

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2007年3月15日 (木)

vol.11 全ての欲は全ての病の源である

 人は何故病に罹るのか。人間、欲が無ければ病は存在しない。発生しない。欲が有るから、欲が強いから病に罹る。病に罹りたくなければ欲を捨てれば良い。欲を少なくすれば良い。が、これが難しい。簡単に欲を捨てられれば病気もない、犯罪も生じない。病院も警察も刑務所も要らない。喧嘩も起きない。誰も傷つかない。
 欲を捨てるどころか、欲を持ちたい、もっともっと欲を持ちたいという人間が如何に多い事か。否、そういう人間が大半なのである。その欲が悪い方に向かうと人を騙す事になり、喧嘩になり、やがて戦争へと繋がっていくのである。
 家庭教育が間違っている。学校教育が間違っている。競争心、闘争心を煽り、あらゆる欲を育んでいく。
 金欲、物欲、名誉欲、征服欲を増幅させ、どんどん醜い人間に仕立て上げていく。
 欲が欲しい、もっともっと欲を持たなければ勝ち抜いて行けない、生き抜いて行けない――――何に勝とうというのか。
 負け組みになりたくないと、その種々の欲を満たす事に努力する事を煽って来た結果は、どうだろう、言うまでもない。
 喜びも悲しみも、怒りも楽しさも、その欲の結果の感情であり、一喜一憂なのである。
 私欲から生じた一喜一憂は全て自分の為であり、自業自得である。その事を理解、納得するには取り敢えず、このブログの最後まで付き合うしかない。全ての欲は、全ての病の源である事だけ、頭に留めて置いて欲しい。
 
 さて、金欲、物欲であるが、これが一番厄介である。
 世の中、金が無ければ生きてゆけない。陸の孤島で自給自足している人に金は無用である。金は何の意味もない。おまけに病気もしないから病院も要らない。人との競争や、闘争がないから警察も要らない。
 では、この自給自足生活が究極の素晴らしい生き方かどうかというと、全然違う。
 究極の自我欲であり、自己満足であり、人間としては失格である。そういう人は生きていても死んでも世の中の、何の役にも立たない。毒にも薬にもならない、人畜無害の存在なのである。
 それは、唯の「人」という動物である。天地火風に融けて、花や鳥と共存する、「人」という動物である。人間として生まれて来た意味がない。
じゃあ、どうすれば良いのかな―― つづく。

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2007年3月14日 (水)

vol.10 自分を追い駆けると自分に追い駆けられる

 純粋に人を想う気持ちになれれば、こんな素的な事はない。が、そうはいかない。そこに大きな障害が立ちはだかっているからである。大きな障害、それは他でもない「我」である。この「我」が人をなかなか成長させない。自我欲、自己愛、自己優先、自己中心、自己邁進、等々の精神が、生き方が強くなればなる程、その人を小さく醜くしていく。そして、そうさせたものは、その張本人は誰でもない、その人自身なのである。
 病の大半は、その醜さから来る。その醜さが病の菌を生み育てる。
 ストーカーも病人である、自我地獄に陥った重病人である。怖ろしい病である。 
 気に入った人を自分の物にする、自分の思い通りに服従させる――偏った征服欲が実行へと突進む。そこに悲劇が待っている。加害者であると同時に自己破滅の結果が待っているのだ。独占欲、征服欲がエスカレートしてくると、もう自分でも抑えきれない。
 自分ではコントロール出来ない。制御装置が壊れてしまったのだ。
 こうなると、人の力を借りなければならない。一つずつ、この地獄から脱け出す方法を教えてくれる人が必要である。
 大体、ストーカーになる人は、元々友達が少ない。いない。
 孤独な人がこの病に罹り易いのである。
 友がいれば必ず相談する。友がアドバイスしてくれる。叱ってくれる。一人よがりの思い込みから、人を想う愛へと導いてくれる。
 人は誰しも友が必要である。お互いに助け合う事の出来る友、それが親友である。
 親友のいる人にストーカーはいない。ストーカーになる人はいない。
 人は一人では生きて行けない。一人では何も成長しない。
 一人で部屋に籠もって、何万冊の本を読んでも幸福にはなれない。知識だけでは何の役にも立たない。却って害になる。
 知識ばかりを披露(ひけらか)し、自慢ばかりする嫌われ者が結構いる。これも病気だ。
 人を蔑み馬鹿にしている自分が、それ故に人に蔑まれている事を知らない。本当の馬鹿である。病気である。
 孤独は孤独であるというだけで病気である。人の成長は人と人とのコミュニケーションの中から生まれる、という原則を知らない人が多い。知らないどころか真っ向から反論してくる馬鹿が多い。これも病気だ。こういう病人に付ける薬は当分ない。時間が費かる。自分を高めたいと高い所に登り、自分を打ちたいと滝に打たれ、自分に打ち克ちたいと自分と戦う。そんな事をすりゃ打たれ強くなって、余計自我が育ってしまうという勘違い……病気だ。その無駄に気付くには時間が費かる。
自分を追い駆けると自分に追い駆けられる―― つづく。

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2007年3月13日 (火)

vol.9 愛とは無償の想いである

 失恋の痛みを止める薬はない。自分自身で治すしかないのである。自分自身で治すのを助けてくれるのは「時」である。時間である。
 と、失恋の痛みがその心や体を蝕む方に行けば治す方法はあるが、これが外に向いたら大変である。思いの通じない相手に無理矢理通じさせようとしたり、怨んで嫌がらせをするようになると犯罪行為へと繋がっていく。ストーカーから殺人行為へとエスカレートし、歯止めが利かなくなる。精神の正常性を失い、コントロールが出来なくなって行くのである。こうなると危険極まりない。取り返しのつかない事になる前に、即、対象の人間から遠ざけなければならない。そして、隔離し時間を費け、正常に戻してやらねばならない。
 失恋は人を成長もさせるが破滅にも追いやる。どちらに向かうかは本人次第である。 
 人を想う、人を慕う事は素晴らしい事である。その人の心を豊かにしてくれる。筈である。その想いが純粋であれば……。
 純粋な想いとは、見返りを求めない気持ちである。想いを相手にも求めるから、純粋ではなくなる。想うだけで楽しくなる。嬉しくなる。その人の幸福を願う。その人の為なら何でもしてやりたい……それが純粋な想いである。決して相手に求めない。自分の事を想ってくれと求めない。
 求める気持ちがなければ、自分が想っているだけで十分幸福であれば、落胆はやって来ない。失恋も存在しない。それが愛の姿である。
 愛とは無償の想いである。決して見返りを求めない。自我を滅した、人への想い……それが深い深い愛なのである。人を好きになったら、その想う気持ちだけではなく、その人の役に立つ事を考えよう。その人の嫌がる事は絶対にしてはならない。その人に喜んで貰う事を考えよう。その人を自分一人のモノに、自分の思い通りにしようとするから、それが叶わぬとなれば不幸になる。求めなければ不幸はやって来ない。失恋もない。ストーカーにもならない。純粋に人を想う気持ちが、その人を成長させ素的にしていく。
これがなかなか難しい――つづく。

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2007年3月12日 (月)

vol.8 恋患いは病ではない

 病気は病気という名の罪である。刑務所も病院も反省と心懸け次第で、出所も退院も早くなる。短縮出来る。病は何処からもやって来ない。自分で造っているのである。そして、自分で体罰を与えているのである。病気は病気という名の犯罪である。被告も原告も裁判官も本人なのである。
 人は何故病に罹るのか。恋患いという言葉が有った。否、今でも有るのかも知れない。昔は男も女も純情で、この恋の病に罹った人が多かった。人を慕う事、人への想いを深くするのは素的な事である。若い時は皆経験するものだ。真しく青春である。それが何故患いなのだ。
 人は恋した時、胸がキューンと締まる感覚になる。その人の事を想う時、胸が詰まり、苦しくなる。
 その人に面した時、心臓が早鐘のように鳴り、破裂しそうになる。患いという字は心臓を串刺しにした状態である。漢字は上手く出来ている。
 恋をして、その想いを相手に告げられない時は、その想いが募れば募る程胸がキューンとなって、心臓が串刺しになる。頭の中は相手への想いで一杯になる。何処を見ても視界の先に相手がいる。何もかも相手に見えてくる。幻状態だ。思考能力は幻に占領される。食欲は減少し、睡眠時間も幻に奪われる。真しく、頭脳・視覚・聴覚・味覚と次々に乱れ、病状態である。恋をする事は素的な事なのに、何故こうも苦しく、病状態になるのであろうか。
 恋患いは病院に行っても受付の科が無い。温泉に行って名湯に浸かっても治らない。どんな妙薬も効きめがない。恋患いは人やモノに頼っても何の意味もないのだ。
 恋患いは病ではない。病の症状に似ている丈なのである。この恋患いは、その想いが相手に通じ、相手が受け容れてくれた時、消滅する。一方通行の間だけ起きる現象なのである。
 想いが相手に通じ、二人は交際を始める。恋は愛に発展する。相思相愛である。幻が現実となり、相手の事を想う時、胸が熱くなり心が躍る。血流が良くなり肌が艶々と光る。何を食べても美味しく、何を見ても綺麗に見える。周りの事が気にならなくなり、その寛大な心は少々の事では腹が立たなくなる。人に優しくなる。悩みは無くなり、幸福一杯になる。愛は人を育む。愛は人を成長させる。病には罹らない。病が発生しない。
 と、順調にいけば良いのだが、その想いが通じない時、恋患いは頂点に向かい、不幸のどん底へと落ちていく。悶え、苦しみ、身を焦がす。身も心もボロボロになり、ホンモノの病に罹る。胃や肝臓や肺に疾患が生じ、病院が受け付けてくれる。対症療法で、それ以上悪化しないように努力してくれる。しかし、治る訳ではない。失恋の痛みを止めてくれる訳ではない。  痛み止めはないものか―― つづく。

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2007年3月11日 (日)

vol.7 刑務所も病院も一緒である

 夫は焦り腐り自棄(やけ)になり、どんどん再起不能となっていく。そして遂には妻に見放され、離婚となる。不景気で倒産が相次ぐと、このケースも正比例する。こんな夫婦に病は忍び寄る。

 黙ってニコニコと普段通りに従いてくる妻、「あなたはこんな事で挫(くじ)ける人じゃないわ、頑張って」と励ます妻、夫の仕事の途(めど)がつく迄、働きに出て支える妻、「こうしたら、ああしたら」と、夫に提案し、一緒に乗り越えようとする妻――それ迄の夫婦のあり方の結果である。
 夫は妻に勇気づけられ、再建復帰に向かって懸命に頑張る。妻の愛に支えられ、感謝し、百倍の力を得て、前にも増して目覚ましい成果を上げる。完全復帰を遂げる。夫婦の絆は益々強くなる。
 人生は順風満帆ではない。その如何なる時も夫婦は一心同体、パートナーである。そんな夫婦に病は近寄らない。

 罪を犯してはならない。人を傷つければ罰が待っている。刑務所が待っている。刑務所に入ったからといって、刑期が終えたからといって、罪が消える訳ではない。償いが出来た訳ではない。唯、罰を受けた丈である。刑務中に反省し、出所後はその償いをしなければならない。償いの準備をするのが刑期という時間である。
 深い反省と償いの準備をせずに出所して社会復帰をしたら、叉、悪い事をして刑務所に入る事になる。再犯、再犯と救いようのない人間になっていく。

 病気になってはならない。病気になったら、その重さによっては仕事が出来なくなる。
 病院が待っている。刑務所も病院も一緒である。刑期が終わるまで出して貰えない。自由は束縛される。勝手な行動は出来ない。食事も不味(まず)い。朝は起こされ、夜は時間が来れば電気が消える。完全に管理統制されているのである。居心地の良い筈がない。中には稀に、居心地が良いらしく、何度も行く人がいる。天涯孤独の人である。社会から弾き飛ばされた人である。そんな人達の中に、刑務所や病院の方が天国だと、無理に罪を犯したり、怪我をして何度も戻って行く人がいるのである。言いようの無い淋しさに駆られる―― つづく。

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2007年3月 6日 (火)

vol.2 心の輝いている人には化粧は要らない

 外形を変えて悩みが解消した、という人がいる。果たして解消されたのであろうか。自分では醜いと思っていた鼻を整形して、すっきりとした鼻になった。ところが、他とのバランスが崩れて妙な顔になった。鼻だけで言えば、スッキリ御満悦。周りの人は、前の鼻の方が愛嬌があって親しみ易かったという。
 それではと、眼の整形をする。眼と鼻のお隣り同士はスッキリとして、御本人は御満悦。そうすると、眉毛と口が余計眼と鼻に融(そぐ)わなくなった。眉と口組、眼と鼻組が喧嘩をおっ始めた。どちらも一歩も譲らない。周りの人は、その妙な喧騒な顔を見て、「気味が悪い」と近付かなくなる。
 こんちくしょう!と、眉と口もいじくる。見事な美形になった。周りの人も親友までも居なくなった。表情が変になり、性格と顔が一致しなくなったのである。愛せなくなったのである。
 それでも御本人は御満悦。付き合う世界を変える。整形の顔とは知らない人達は、美人だ美人だと外形で近付いて来る。御本人は有頂天。ところが矢張りあっという間に去っていく。何か味気なく暖かみを感じないからだ。元来、本人の持っていた優しさや気配りが、チヤホヤされる事によって失われていったのである。
 外形と内面は釣り合うように出来ている。勝手にいじくればバランスを崩す。整形によって形を変える事は出来ても、それが真の美に繋がるとは限らない。何もかも変える事は出来ない。
 眼の玉は整形出来ない。眼の玉は化粧出来ない。人と対話をする時、その相手の眼を見る。見ない人もいる。余程疚しい事があるからだ。普通は相手の眼を見る。見れば直ぐ分かる。心が輝いていなければ澄んだ綺麗な眼にはならない。眼の玉は嘘をつかない。
 狸のお化けの様に眼の周りをケバケバ塗ったくっても、眼の玉は綺麗に見えない。眼の玉はその人の心を映し出している。無駄な努力である。
 心の輝いている人には化粧は要らない。化けて装う必要がないのである。眼の綺麗な人は顔も綺麗なのだ。世の中お化けが多いですねー
つづく。

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2007年3月 5日 (月)

vol.1 人は何故病に罹るのか

    過ぎたるは及ばざるが如し

 人は、その大切な人生を楽しく、美しく有意義に過ごし、幸福に天寿を全うする。筈である。
 そうである人と、そうでない人がいる。その大切な時間を無駄に過ごしたり、その殆どを病院のベッドで過ごす人もいる。
 人は何故病に罹るのか。病は厄介である。
 苦痛を伴なわない病は少ない。大抵は苦痛を伴なう。
 なりたくて病人になる人は少ない。大抵は病人になりたくない。
 人の病は痛くない。人の病は蜜の味…嗤っていると、やがて病に罹る。その時、その人の痛みが分かる。
 仕事をし過ぎると病に罹る。遅かれ早かれ病に罹る。過労は病への登竜門、否、地獄門。仕事をしなさ過ぎると病に罹る。全ての機能が働かなくなり、世間からも見放される。怠くら病は厄介病。世間の鼻摘(つま)み。
 人の話を聞かないと、耳が聴こえなくなる。耳が怠けていると、怠けた分だけ聴こえなくなる。
 人の悪口ばかり言っていると、喉が潰れて喋れなくなる。
 人を蹴飛ばすと足が動かなくなる。
 他所(よそ)の奥さんに腰を使うと腰砕けになる。
 悩みの多い人は少ない人より病に罹りやすい。悩みの深い人は息をするのを忘れている。息苦しくなって、ハッと気づき、深い溜息をつく。息を溜めると血の流れが悪くなって病に罹る。息を溜めずに金貯めろ。金も溜め過ぎると病になる。厄介である。厄介者は嫌われる。過ぎたるは及ばざるが如し。
 人は何故悩むのか。無くて七癖、七悩み。有って百癖、百悩み。
 人は誰しも大なり小なり悩みを持ったり抱えたりしている様である。外形から始まって内面、過去から始まって現在、果ては生きているかどうかも分からんのに、十年二十年先の事で悩む。   厄介なものですねえ― つづく。  

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2007年2月22日 (木)

はじめにに代えて

本日も快調!

―新たなる出会いを求めて―

                                

 東隆明とはいかなる人物なのか?!?!

 このブログで始めて知った方の為にちょっと書いてみよう。

 夜な夜な巷のスナックやら小料理屋やらに出没し、居合わせた青年、ご隠居さん、キャリアウーマンたちと冗談を言い、時にはカラオケを歌い、大真面目に語り、まるでこれが仕事とばかりにお酒を飲む。一年365日、朝まで!

 ご本人にそこらへん、聞いてみましょう。

「もしかしてアル中なの?」

「アホ!アル中なんぞじゃあねえ! わしゃ、人中だ」

「ジンチュウ???なんじゃそれ???」

「人間中毒だよ、人が好きで人に酔っているんだ」

 口ヒゲを生やし、ひょろりと細長い体型で、ニコニコと現れ、誰彼構わず、人懐っこく話をするが、瞳は心底を見透かすように鋭く光り、深く澄み渡っている。

「夜の酒場には色んな人がいる。その人たちと話ながら、美味しくお酒を頂く。コーヒー飲み乍らじゃあ、人生は語れないよ」

 タダの話好きのオッサンか、違う。実はとんでもない力を持っている。あらゆる病が快癒に向かう、誰もが眼を見張る、超能力だ。

                  

 指先で軽く擦られただけで、皮下に真赤な条が浮き上がり、メチャメチャ痛い!!!大の大人がギャーギャー喚く、指を離すと痛くも痒くもない。赤い皮下の内出血が消える頃、症状も消える。名医も薬も効かないのに、である。そしてこの力の恩恵を受けた人は実に多いのだ。          Aka3             

 興味のある方は本を読んで頂ければ詳しく書いてあるが、東隆明はこの力について、医学で重症だとか、軽症だとか、原因不明であっても不治であっても、あまり関係ない、治るべき人は治る。超能力というとまるで魔法か手品のように感じる人もいるかも知れないが、そうではない、この力は愛だ、だから誰にでも、出来るようになる可能性がある、と言うのだ。

 とにかく、皆一様に衝撃を受け、人生観までも変えていく。いや、変えざるを得ないではないか。

 さて彼は和歌山から19才で上京、俳優や演出、脚本、プロダクション経営と多忙な日々を送っていた昭和58年、天啓を享け、この超能力を授かった。そしてその日から「自分の為に生きるのをやめた」のだと言う。順風満帆、溢れんばかりの才能を開花させていたにもかかわらず、である。そして自然会という会を発足させた。

 東隆明のことを皆が会長と呼ぶのはこの自然会の会長だから。「会長」うん、これが一番しっくりしている。この後は会長で進めよう。

 そうだ、私との出会いも少し書いておかねば。今から20年以上も前に遡る。

 ある知人に紹介を受けて私は日本橋丸善に発売されたばかりの前述の本を買いに行った。『実践超能力!YOU…』ふんふん、これか。

 ひっくり返して裏表紙。???の本は「幸福行き」の切符である…と書かれた、の字が読めなかった…!(汗!)

 気を取り直してレジで1300円支払い、店の外へ。

帰宅するまで待てず、日本橋の喫茶店に座り込んで、読み始めた。

 さわりだけでもと思ったが、止まらなくなった。涙が止めどもなく溢れた。感動して、というより、勝手に身体の底から湧き上がってきた、という感じだった。もちろん傍目にはさぞおかしな光景に見えただろうが。

 これまで、なんと依存心で生きてきたことだろう…

 何でも人のせいだった…

 感謝なんて言葉、知らなかった…

 そう、思わずにおれなかった。

 何かすっきりとした晴れ晴れとした気分になって電車を乗り継ぎ家に帰った。そして私も自然会に入れてもらったのだった。

 自然会って何しているのか、普段はコミュニケーションをしている。美味しいものとお酒を頂きながら、老若男女、色んな職業、色んな経験、色んな考え方が日本中から集まって語りあう。

何時来ても、何時帰ってもいいし、眠ければ眠ってしまってもよい。お酒を飲みたくなければ、飲まなくても勿論いい。たった一つ、人が話している間、私語はしないという暗黙の不文律があるだけである。

 冗談もダジャレもポンポン出る。とにかく明るい。お世辞や慰めあいっこはしない。人を馬鹿にする人もいない。皆素直に聞き、語り、感動し、机の勉強では学べない何かを学んでいく。

 気がつくと何か、肩のあたりが軽くなって、胸がすうっとしている。目が外に開かれる、っていうのか、自分ひとりの狭い考えを突き抜けて、悩んでいたことがアホらしくなるっていうのか、な。

 皆がどんどん変わっていくのが分かった。家族が皆健康で明るくなって、隠し事がなくなり、深くがっちり絆を結びあうことが出来るようになっていった。

 職場の同僚から信頼され、親しまれ、いつも人の和の中にいた。

 家族にも尊敬されない、最も身近な人にも尊敬されない人に何が出来るというのだ。そしてそれが出来たら、今度はその力を人の為に使わなければ、というのが会長の口癖であり、信念なのだ。

 そして自然会の有志とともに、会長は1991年から雲仙普賢岳災害に苦しんでいた島原の復興支援に取り組んだ。

 一つ一つやることがハンパではない。

でっかいホテルの大広間を借りきって、励ます会やクリスマス会をやったり、唄を作ってレコード会社に働きかけて、CDを全国発売し、全国主要都市37ヶ所で普賢復興支援コンサートを開き、募金を集めて市役所や小中学校に寄付したり、島原市内にコミュニティサロンを作り、常駐者を置き、地域のコミュニケーションに貢献したり…

 お見舞い程度なら最初からやらない方がいい、やる限り、我が身として、見事に復興を遂げるまで、と私財をつぎ込みきって、大借金を背負ってまでも、10年に渡って続けられた。

 何故そこまでするのか、島原はもう終わっただろう、などと随分聞かれたそうだ。終わったのはマスコミの報道だけ、ニュースでやらなくなっただけ。噴火はいつ止むとも知れないのだ。何も解決していない。何も終わっていない。

 私も現地を何回か訪ねた。

 土石流に民家が埋まっている場所をこの眼で見た。その衝撃は大きいものだった。

 わずか前まで、そこに生活の息吹が、家族の暮らしがあった、余韻もそのままに土砂に埋もれ、静かに時を止めていた。

 私はニュースでその映像を見たが、実は何も見ていなかったのだ。

 世の為、人の為、と言葉にすればたった10秒が、実際に行動を起こすことは至難。まして何か人の役にたつなんて、とんでもなく難しいことだと知った。だからと言って実際にその場に立ち、自分の目で見、肌で感じなければ、ニュースでちょっと見た遠い遠い土地の出来事として通り過ぎていたに違いなかった。

 今思い返せば、島原の人たちには本当に多くのことを学ばせていただいたと感謝している。

 そして極最近では拉致被害者の早期帰還を後押ししようと、唄を作り、全国発売した。

 皆が心を合わせ、一丸となって盛り上がることが重要だと言う。他人事ではない、もし自分の家族だったら、と思うとじっとしておれないとも言う。長年シベリアに抑留され、一度も会うことが出来なかった父への思いと重なるものがあるのだ。

 「愛ある故に」「人生は幻」、2曲とも心洗われる、とてもいい唄だと思うので是非一度聞いてみて欲しい。

 親が子を殺し、子が親を殺す。同級生をいじめ、自殺に追い込んでしまう。警察官が学校の先生が平気で犯罪を犯し、キチガイが刃物を持って道をウロウロしている。おかしな宗教がはびこり、人心を惑わす。

 皆憑き物に憑かれたように自分のことしか考えない。自分のことしか眼中にない。

 大地震、大津波、火山噴火、ハリケーン、天災は続く…。

 心の時代、精神の時代を声高に叫ぶ頭のいい人たちは多いのだけれど…。

 今、社会の根底で、本当に壊れているものは何なのか。

 …キミはどう思う?

 会長にとって、見知らぬ土地の困った人を助けることも、難病に苦しむ人を救うことも、夜の巷に出て、袖すりあった人と語りあうことも、同じように、私には見える。今日がすべて、明日はないと思い定めて、行動している人、なのだ。

 このブログも同じである。自他共に認める機械オンチ、アナログ人間なのに、無謀すぎる、との周囲の声も聞かず、新たなる出会いを求めて。

 会長と語るのに別に構える必要はない、気楽にお酒を飲み乍ら、の気分でいい。

 年令も肩書も関係ない。心と心のふれあいに垣根はないもんね。

中には、疑り深い人も中にはいるだろう。よろしい。自分の感性、自分の心眼で見極めたまえ。それが一番大事なことだ。誰とて生かされている時間は短いのだから。

 このヒゲのオッサンはオヤジギャクも出るし、時には説教もこく。

人とは張り合わない。甘ったれた根性のやつは無視する。

 明るく前向きに、周囲の人を大事にして生きている人は必ず応援してくれる。口の利き方は少々荒っぽいかも知れないが。

しかし、君が今迄出会った多くの人とは違う、と思う事だけは予測出来る。

 くれぐれもナメて掛かるべからず、手強ぅえーぞーお!!!

                ブログ案内人 久我令子

                 

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