2009年3月 6日 (金)

vol.99 悲しみの瞳

悲しみの瞳を向けられた時
心配を掛けたのかな と思い
御免なさい と言いたくなる

射すような瞳を向けられた時
叱られるな と思い
何故か 嬉しくなる

涼しい瞳を向けられた時
見透かされてるな と思い
気に入られよう と焦る

微笑みの瞳を向けられた時
愛されてるな と思い
涙が 溢れて来る

その人は何時も 白
その人は何時も 鏡

怠けていると 汚い心でいると
その人は悲しみの瞳を向ける

輝かなければ と思う
悲しみの瞳に
ありがとう と言おう

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2009年2月 4日 (水)

vol.96 メッセージ5 求めなく、与える事の人生――黄金に輝く

 若くして、宝の子を授かった父・母は、人間として未だ未だ未熟な中に子育てが始まる。ああでもない、こうでもないと迷ったり、戸惑ったりし乍ら、その経験の中から色んな事を学び、その子も、父母も共に成長して行く。家庭の教育とは、共に育つ事である。共育である。
 父・母は子供に軽蔑される様な生き方をしてはならない。其処に育った子は、父母を尊敬し、父母に憧れ、父母に追いつき、追い越せる人間にならなければならない。我が子が立派になる為には、父・母自らが立派である事が絶対の条件である。自分達が良い見本手本になれずに、子供に立派になれという身勝手な親が多い。だが、それでも、そんな悪条件でも立派になる子もいる。困難と悪条件を乗り越え、それをバネにして、克服して立派に成長する人もいる。鳶が鷹を生んだ例えにもある。
 親が子供に軽蔑され、軽視されるという事は、親失格を意味する。人間失格を意味する。子供に尊敬されない親は、子供に愛されない親は親ではない、親とは呼べない。大きな態度で親面をしてはならない。恥じて、反省して、人間として魅力のある生き方をする様、努力しなければならない。さすれば、子供の不信感は去り、愛される親に成れるだろう。そうならなければ生きている意味も無い。
 親の深い愛に包まれ、スクスクと育った子は、暖かい心と清い心に溢れている。人を思い遣る心と、人への感謝の心、人を愛する気持が全身に溢れ、その全てを自然に、無理なく駆使する事が出来る。親の手柄である。本人の手柄である。それ以上の成功はない。天晴である。
 人は俗っぽい競争心や名誉欲を少なくしなければならない。捨てなければならない。
 人は食欲、性欲、物欲を少なくしなければならない。必要以上のモノを求めると不幸に陥る。病が待っている。憎悪が待っている。破局が、地獄が待っている。
 求めなければ落胆はない。病もない、憎悪もない、破局も地獄も無縁である。
 求めなければ何時も平穏でいられる。焦燥感に苛まれる事も絶望する事もない。
 求めなければ、与える事が出来る。与える事しか残らない。与える事しかなければ、結果は喜びしかない。喜びに満ち溢れた毎日を送る事が出来る。
 求めなく与える事の出来る人生。それは人間の最高の目的、究極の幸福、本当の、ホンモノの生きる道である。
       その人生は、黄金に輝く――
         ホンモノの王道である。    つづく。

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2008年11月 4日 (火)

□暖心・そして清心

vol.86 戦・争・愚・言・無・恥・値

【戦】 我が子を負うて死体の山を踏ん付け乍ら逃げ回った若き母親……。爆音機が急降下し砲射音が聞こえ、横の婦人が倒れる。通り過ぎる殺人機の中にパイロットの笑顔を見た。ゲームを娯しむかの様な。踏ん付けられた死体と踏ん付けた者の違いは何なのか……。母と子は戦後を長く生きている。母と子の災害は終っていない。
【争】 収入が減ると、苦しい。家が失くなると悲しい。友がいなくなると淋しい。恋人が去ると哀しい。無理に取り戻そうとすると喧嘩になる。初めから無ければ何て事はない。初めから無いのです。そうそう、生まれた時も死ぬ時も身一つです。皆、一緒です。
【愚】 三日前の夕食の献立を即座に思い出せるでしょうか。三日後の出来事を予測出来るでしょうか。明日生きていると言い切れるでしょうか。皆、大した事ありません。
 今を楽しく、一生懸命生きて疲れたら、ゆっくり――安心して、ぐっすり眠りましょう。
 扨、明日は今日ですが。
【言】 マラソンで四十二、一九五キロを完走する人に、「凄いですね」と言います。十人の子供を産み、懸命に育てる母親に、「大変ですね」と言います。
 御本人達が一様に仰言います。「好きで生甲斐を持ってやってます。大変だったら続きませんよ」然り、「大変ですね」は、自分で毛頭やる気の無い人が使う言葉なんよ。
【無】 人の災害や障害を我が事と思えるでしょうか。人の子を我が子と思えるでしょうか。
 一寸提案。人の事を好きになればどうでしょうか。ホンの一寸自分より。
 人の事に夢中になったら如何でしょう。漸々自分が小さくなって、その中、無くなるかも。かなり素的ですがね。
【恥】 背の高い人ばかりでは高いとは言えません。お金持ばかりでは金持とは言えません。御馳走ばかりでは御馳走とは言えません。もっと高い人にはどう自慢するのでしょう。恥かしや。
【値】 「私はね、こうこう、こういう人なの」と、言う人がいる。「私の信念は○○○だ」と、言う人がいる。「私は○年○月迄にこうする、ああする、ああ成る!」私、私、私と人の迷惑顧みず自己主張。それがどうしたオッサン!それがどうしたオバサン!出来てない、出来ない事をさも出来そうに言うんじゃない!
 私、私という言葉を殊更に使うのは止めましょう。
 人の値打は自分で決めるものではありませんがね。
 戦・争・愚・言・無・恥・値。お平に。以上七訓でした。
                      つづく。

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2008年9月26日 (金)

vol.85 ホンモノの命の輝き

  人を幸福にするには具体的にどうすれば良いか。
 それは簡単な事である。簡単な事ではあるが、人の為に何もした事のない人には仲々思い付けない事である。人の為に人の為にと考える習慣が無い人には、何が人の為かも分からない。分からなければ遣り様もない。悲しい事である。人の役に立つ事も出来ないのである。人間失格である。
 人を幸福にするには、何時も人の事を考えていなければならない。何時も自分の事を考えている人には理解出来ない習慣である。
 何時も人の事を考えていれば自ずと何をすべきかが分かる。何時も人の事を想っていれば、自ずと自然に行動が生まれる。その習慣が練れてくれば一々考えなくても、一々想わなくても自然に体が動く。人の為に行動する人間になっているのだ。何時も人を愛してる故に出来る行動である。愛のベテランである。
 何時も自分の事しか考えて来なかった人は、今からでも遅くはない。今直ぐ始めよう。
 人の為人の為と言う許りで何もせず、結局は自分の為にしか行動出来ない人はニセモノである。
 ニンベン(イ)にタメ(為)と書いてニセと言う。イツワリ(偽)と言う。自分の為に生きるのがニセの生き方で人の為に生きるのがホンモノの生き方なのである。 
 だから、山に登って綺麗な清い空気を吸って、風や花に語りかけ、滝に打たれ、一生懸命お経を唱えて修業をしても、それは自分を高め、自分を磨く事には繋がらない。誰の為にも何の役にも立たない、一人よがりの孤立である。そして勝手に達観したと、悟りを開いたと勘違いして、世の毒にも薬にもならず、今生を終えるのである。
 人の為を考え、想い、行動してる人は、その夫々の仕事を通じて、その夫々の触れ合いを通して、その愛を深め広めて行く。
 人は人の為に働いてこそ磨かれる。それ以外に磨かれる方法も道も無い。
 その姿は明るく、その言葉は人を勇気づけ、その行動は人の魂を打つ。
 そんな人と出逢ったらチャンスである。チャンスを逃がしてはならぬ。
 そんな人に出逢ったら、素直に受け容れて自分もそんな人にならねばならぬ。
 素直であれば、もう直ぐそんな人に出会う事が出来る。素直さが、そんな人を引き寄せるのである。素直でなければ出会っていても気付かない。
 その人は輝いている。その光りは、ホンモノの命の輝きなのである。 つづく。

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2008年9月18日 (木)

vol.83 親の欲が家庭を壊す

 妻が夫を助けて働きに出るのは決して悪い事ではない。それどころか、とても素晴らしい事である。夫婦で協力し合い、素晴らしい家庭を築いて行く……とても美しい夫婦の姿である。でなければならない。
 金の力は大きい。金は人を幸福にもするが不幸にもする。
 だが、金が意志を持っている訳ではない。金が善意だったり悪意だったりする訳でもない。
 金は金、唯の金なのである。綺麗な金も汚ない金もない、唯の金である。
 されど金、なれど金。有難くもあり厄介でもある。
 金は人の心を写し出す。金は人の本性を映し出す。
 金が人を操るのではない。人の心が金を操り、善と悪に岐れるのである。 
 妻が夫を助けて働くのは当り前の事である。初めは生活も楽になり、家族の笑顔も増える。妻は嬉しくなり仕事を増やす。そして、もっと良い暮しがしたくなる。もっともっとと仕事の量がエスカレートして行く。そして、何時の間にか金に操られているのである。否、自分の欲に操られコントロールが出来なくなって行くのだ。そして有頂天になり鼻持ちならない人間と化して了う。
 夫より収入が多くなると悲劇が忍び寄る。夫が馬鹿に見え、態度が横柄になる。飾り物が増え、外出が多くなる。夫は夫でひがみっぽくなり、夫婦仲は険悪になる。
 子供は夫婦の姿を見て、ガッカリする。心が荒み、やがて非行へと走る。金の為せる技である。
 すべからく、家庭は平和でなければならない。家族は和やかでなければならない。
 家庭に平和がなくなると、妻が夫を殺す。夫が妻を殺す。親が子を殺し、子が親を殺す。掛替えのない、世界にたった一つしかない家族の殺し合い……。家族を殺せない子は路上に出て、誰でも良い、無差別に人を殺す。殺したくて殺す。全ては、全ての原因は親にある。両親にある。
 子供の非行や苛めは学校の責任と、学校側を世間やその親が攻める。とんでもない間違いである。勘違いである。
 どんな悩みがあっても、それを聞いて呉れる両親が居れば全て解決出来る。
 子供に対する両親の想いが、愛が深ければ深い程、その悩みは一日にして解決する。それには、親の欲、物欲を減らさなければならない。
 その欲を子供に向けなければならない。   つづく。
 

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2008年9月16日 (火)

vol.81 仕事は目的ではない、手段である

 大きくなったら何に成りたいですか?と、子供達に聞く大人が多い。そうすると医者に成りたいとか、先生に成りたいとか、総理大臣とかの偉い職業を口々に言う子もいれば、大工に成りたいとか、漁師に成りたいとか、料理人とかの職人肌の職業を口々に言う子もいれば、小説家に成りたいとか、俳優に成りたいとか、画家とかの芸術肌の職業を口々に言う子もいる。
 何に成りたいかと聞くと答は職業になる。拙い質問である。職業が人格を作る訳ではない。医者でも先生でも政治家でも悪い奴は一杯いる。職業イコール人格ではない。大工でも漁師でも料理人でも、怠け者は一杯いる。皆、名人という訳ではない。
 小説家でも俳優でも画家でも、その才能と人格が必ずしも一致しない芸術家は一杯いるのだ。何になるかが目的ではない。何になるかは手段である。
 大きくなったら、どんな人に成りたいですか?と聞いて上げよう。そうすると皆を楽しくして上げられる人にとか、困ってる人を助けられる人にとか、皆に憧れられる人にとか、答が変わって来る。これが目的である。この目的を確(しっか)り持てた子供達は、その目的を達成するにはどうすれば良いかを、真剣に考える事が出来る。思想と意志が確立して行くのである。
 目的を達成するにはどうすれば良いか、どういう職業に就けば良いか、自分にはどういう才能が有るか、その才能と目的が結びつくか、結びついた才能と目的を実行する事が出来るか、実行は出来てもそれを持続する事が出来るか、有頂天になっても道を外す事なく反省し軌道修正出来るか……
 目的と才能が一致しても順風満帆ではない。思わぬ所に落し穴がある、外にも内にも……。
 生き方が素晴らしければ素晴らしい程、障害も多い。その障害を一つ一つ取り除き、その難関を一つ一つ乗り越えて、ホンモノの人間へと成長して行く。
 人はどんな幼少期を過ごそうが、一生懸命生き、遅かろうが早かろうが一生を共にするパートナーに巡り会い、子を授かり、素晴らしい家族を構築し、幸福な生涯を過ごさなければならない。それが本当の目的である。大事な大事な一番の目的である。仕事が目的ではない、仕事は手段である。仕事が第一目的の人は、その仕事を辞めると路頭に迷い、何をして良いか分からなくなる。その仕事が目的が故に目的が無くなる。やがて家族が離散し家庭が崩壊する。
 仕事は家族や友や地域や地球の為にある、皆を幸福にする為に……つづく。

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2008年8月12日 (火)

vol.78 癌は告知すべきか

 或る日の事である。私は和歌山県は和歌山市の城下町にいた。嘗(かつ)て私が生れ育った土地である。
 其の日は私の著書の愛読者が集まっていた。大部分が中小企業の経営者夫婦である。その仲の良いおしどり夫婦達は、平均四十才。親御さん達も健在で子供も二・三人居る典型的な中流家庭ばかりである。勉強心、向上心の旺盛な働き盛りの夫と、夫を扶け家庭を守る賢夫人の集まりである。時間と共にコミュニケーションは熱気を帯びて来る。人は、此のコミュニケーションの中から成長していく。
 此の、月に一回の例会も回を重ねる度に会話の内容が変わっていく。皆の人間性が向上し、魅力が増していくのだ。
 そんな中、一組の夫婦丈が何となく暗い。どういう事か。何時も明るい、冗句の好きな夫婦である。あまり皆の会話に乗って来ない。こういう場合は一人一人のスピーチになっても後回しにして上げる。人のスピーチを聞いてる中に、自分の問題や悩み事のヒントになって、見る見る明るくなる事が多々ある。何時の間にか解決するのである。困った時は、人の話に耳を傾ける事である。塞ぎ込んでいても何も解決しない。
 だが、そのSさん夫婦は時間が経っても浮かぬ顔をしている。どうもヒントに行き着かないらしい。暗い顔の侭のSさんのスピーチと相成った。
「実は妻が癌なんです。余命半年と言われました」
 衝撃が走った。その場の空気が止まった。夫のマイクを持つ手が小刻みに震えている。
 妻は俯いて息をしていない――やや有って、夫が涙声で語り出す。
 Sさんは親や子供を安心して妻に任せていた。それ位甲斐甲斐しい奥さんなのである。仕事も順調で人にも好かれ、付合いの多いSさんは家庭の事は殆ど奥さんに任せ切れたのである。その筈であるが……違った。
 愚痴の一つも言わず、何時もニコニコして全ての事を内に仕舞い込み、そのストレスが癌という岩の様な塊となって襲いかかって来たのだ。
 多少の体調の悪さも、気の所為と頑張って来た奥さんが、夫と一緒に受けた健康診断で、癌を告知された。
 癌告知に於いて、どういう方法を用いるか――医者は考え、悩む。
 その侭診断結果を本人に通知する医者は少ない。心情を察するからである。
 告知は大抵の場合、先ず配偶者にする。配偶者だってショックである。医者も辛い……。癌は本人に告知すべきか、せざるべきか。 つづく

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2008年8月 7日 (木)

vol.77 反省の強さと愛の深さが奇跡を

 電車と喧嘩をして九死に一生を得たSさんは、助かるには助かったが身体が元に戻らず、未だ若いのにトラックを運転する事も荷物を持つ事も出来ない。
 仕事復帰は絶望的であるという。これは何としても何とかせねば……。
 翌日、Sさんが若い奥さんと友人に連れられ私の元にやって来た。奥さんの胸には一才半になる子供が抱かれている。
 雑談が始まった。生い立ちから結婚までの経緯、事故の武勇伝、家族への想いを語るSさん。その口調は、とても好感の持てるものである。真面目で生きる事への真剣さ、誠実味が溢れている。奥さんも仲々の美人で、夫を見る眼が愛情の深さを物語っている。
 Sさんは妻の抱いた幼児を優しい目で見乍ら「この子を抱きたい、この子をこの腕に抱きたい。この手は、この腕は全く言う事を聞いて呉れません。肩も動いては呉れないのです」……Sさんも奥さんも友人も、その目に涙を溜めている。
 私の救済が始まった。私のその行動は“お祓い”と言って、その時丈私は神主となり、天の使いとして力を授かり、それを発揮する。
 怪我も病も本人に起因するものであるから、本人が治さなければならない。だが、その本人の反省度や、囲りの人の愛情度が深ければ深い程、強ければ強い程、治る確率も高くなる。治る資格も高くなる。其処に天の手助けが有る。天の恵みが有る。
 然し、反省の足りない人、救う価値のない人は、例え無理にお祓いをしても治らない。治る資格が無いのである。お医者さんとは違う。
 お医者さんは人を選ばない。善人であろうが悪人であろうが、仕事として施術を行う。
 天の“お祓い”は差別をする。
 Sさんは合格した。私の指がSさんの悪い所に触れる。擦る。Sさんが呻く。
 悪血が浮き出て来る。皮下出血である。悪い血である。相当悪い。
 休憩し乍らの一時間……。Sさんは脂汗をかき捲った。呻き捲った。終った。
 Sさんの目の前に、奥さんが恐る恐る抱いている子を差し出す。
 Sさんの両手がすっと出て子供を受け取った。落ちない。落とさない。子供は確(しっか)り両腕に乗っている。Sさんは子供を正面に持ち直し持ち上げた。「高い高い」と言い乍ら、何度も何度も頭上高く上げたり下げたり……。
 皆の愛がSさんとSさんの家族に奇跡をもたらした瞬間である。
 たった一回のお祓いであった。       つづく。

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2008年7月 3日 (木)

vol.74 生命の尊さと生きる事の素晴らしさ……

 人は皆、人として生まれて来た限り、生命の尊さと生きる事の素晴らしさを知らねばならない。愛する事と愛される事の喜びを知らねばならない。でなければ唯、飯を食って排便する丈の機械に過ぎない。只の動物であって人間である必要もないし、人間である資格もない。
 人間、此の世に生まれて来た限り、愛を知り愛を深め、素晴らしい人生を送らねばならない。人を嫌い人を恨み人を傷つけてはならない。人に嫌われ人に恨まれ人に傷つけられてはならない。
 人間にとって一番大切な財産は金銭ではない。金は使えば無くなるが、愛は、真の愛は永遠である。永遠に人の心の中に残る。肉体は死しても、その愛は、その魂は人々の心の中に生き続ける。
 どれだけ人々の為に働けるか、どれだけ人々に感動を与えられるか、どれだけ人々に感謝されるか……
 友の居ない孤独な人は成長しない。成長しないまま人生を終える。勿体ない事である。何の為に生まれ何の為に生きるのか。幸福とは何なのかを知らずに、愛する事を知らずに、知ろうともせずに人生を終える人は、生きて来た意味もなく、寧ろ、害である。
 夫は連れ添って呉れる妻に感謝せねばならない。大事な大事な宝、子供を産んで育てて呉れる妻に感謝しなければならない。
 妻は、自分を愛し自分や子供の為に一生懸命働いて呉れる、夫に感謝せねばならない。
 妻も夫も生まれて来て呉れた子供に感謝しなければならない。
 子供の誕生が、成長が、夫婦をより成長させ幸福にして呉れる。
 子供は、自分を生んで呉れた両親に感謝しなければならない。どんな父であれ、どんな母であろうと、その父と母でなければ自分は生まれて来なかったのである。その個性は、その父と母のDNA以外には有り得ない世界にたった一人の個性、貴方なのである。良きも悪しきも全てDNAに感謝しなければならない。悪しきものを改善し、良きものを増やす事が親への恩返しである。人皆その事に心掛ければ、次の代またその次の代と良きDNAが増え、人はどんどん成長し、世界は平和になり、愛に溢れた地球となる。
 地球は素晴らしい、愛の星となる。 つづく。

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2008年6月24日 (火)

vol.73 天国と地獄の切符……どっち?

 両親や兄弟の愛に包まれ、素晴らしい師や友たちに恵まれスクスク育つ人は幸福である。世界の家庭や環境がそうであれば、何と素晴らしい事か……。争い事の一つも無い世界が其処に有る。争い事が無いのだから、軍隊も警察も核兵器も不要のものである。
 悩み事や心配事も無いのだから、宗教も暇だし詐欺も成立しない。
 然し、そんな完璧な理想の世界は未来永劫構築出来ないだろう。全体的に考えれば長い時間を費けて少しずつ理想に近付く事が出来るかも知れない。懸命に努力する人を一人ずつ増やして行くしか方法はない。
 世界を悪魔の巣窟にして了うのは簡単で、時間は費からないが、世界を天使の愛の園にするには遠大な時間が費かる。気が遠くなる程の努力が必要である。
 苛めや人を殺す奴は人間ではない。悪魔である。然しそういう奴も生まれつき悪魔だった訳ではない。そういう奴の殆どが家庭に理由がある。必ずといって良い程両親に原因がある。両親が仲良く愛し合っている家庭に生まれた子が、悪魔になる事は先ず有り得ない。
 世の中で起きている犯罪は、その犯人の親に多大な原因がある。だが犯人が成人である限り、その親は罪を問われない。刑を科せられる事はない。最大の責任はその生産者である親にある筈なのに、親が刑に服する事はない。だから犯罪が減らないのである。親が刑に服するのであれば良い加減な育て方は出来ないだろう。
 然し、どんなに悪い環境に育っても素晴らしく成長する人も沢山いる。
 自分の不遇を親や世の中の所為(せい)にせず、親を反面教師として、世の中を修業の場として、前向きに明るく生きている人が一杯いる。どんな仕打ちに遭っても決して恨まず、人を愛し、楽しく生きている人が一杯いる。
 自分の境遇を嘆き悲しめば、内にサタンを誕生させる事になる。そしてそのサタンは、親や世の中への復讐鬼となって暴れ出す事になる。そうなれば破滅である。
 自分の不遇を自分に与えられた試練だと、境遇に天に感謝し懸命に生きてゆけば、内に天使を誕生させる事になる。
 一つの仕打ちを不遇と嘆くか、励みとするかで天国と地獄に別れる。
 果して、貴方はどっちの切符を手に入れますか? つづく。

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2008年5月14日 (水)

vol.71 感謝の原点――ふるさと

 人は幸福過ぎると、人の不幸が目に入らず、自己の外形の美や命を長らえる事許りに熱中する様になる。欲張りなのである。醜い欲張りである。
 人は一人では生きて行けない、という事を何時も肝に銘じていなければならない。其処に感謝の原点がある。生きている、生きて行く原点、生命のふるさとを歌にしたのを載せておこう

         ふるさと

(クラウンレコード)東 隆明作詞 ふるかわただよし作曲

 人は誰しも 母の胸から飛び立って
 広い世界に 巣立ちゆく
 ゆく先々に 壁あり 山あり 谷がある
 雨降り 風吹き 嵐来る
 そんな時 母の匂いを想い出し
 そんな時 母のぬくもり想い出し
 深い愛に 報わんと
 涙ながらに ムチを打つ
 
 人は誰しも 父の生き様 見て育ち
 広い世界に 羽ばたき渡る
 世の大海に 小波 さざ波 しけありて
 乗り出し こぎ出し 舵を取る
 そんな時 父の姿を想い出し
 そんな時 父の厳しさ思い出し
 幼き頃に 享けた愛
 感謝ながらに 船をこぐ

 愛は与えるもので 勝つものじゃない
 愛は帰ってくるもので 奪うものじゃない
 ふるさとは人の心にあり 永遠のもの
 ふるさとは生きてる証 永遠にあり
 永遠にあり   

        
            つづく。

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2008年5月 7日 (水)

vol.69 今直ぐ、何をすべきかを考えろ

 人に夢中になると人生が一変する。自分に夢中になってる幸福感と、人に夢中になって得られる幸福感では同じ夢中でも雲泥の差がある。百倍も千倍も幸福度が違う。全く次元の違う幸福なのである。その違いに気付いた時、人は目醒める。真の愛に目醒める。如何に自己愛が、次元の低い価値の無いものかと気付いた時、それ迄の人生を恥じ、反省し、新しい黄金の道を歩む第一歩を踏み出す事が出来る。そして、その気付きを一人一人と伝え、広めて行く事が至上の喜びとなるのである。それがホンモノの道である。
 ホンモノを一人、一人と確実に増やして行かねばならない。一人一人と増やして行き乍ら自身を、より光り輝くホンモノへと向上させて行かねばならない。遊んでいる場合ではない。
 今、地球は危機に直面している。文明の発展発達と反比例して、人間の心は荒み、後退し、天変地異の崩壊を待たずして、人間自身の手に依って、地球は音を立てて崩れ始めている。
 友食いを始め、それがやがて近い将来、友倒れになろうとしている。
 このまま行けば、過去に犯した過ちよりも、もっと大きな、取り返しのつかない、全滅に近い友倒れを人間は犯して了うのである!
 ストップを掛けねばならぬ、大急ぎでストップを掛けねばならぬ。一人一人が愛に目醒め、ホンモノとなり、一人一人がストッパーにならねばならない。遊んでいる場合ではない。太鼓腹を抱えて、しゃもじを担ぎ、玉を掬(すく)ったり転がしたり……。動かぬ穴に四回でPAR、五回でPAR! 世界の危機を、我が家庭の崩壊を微塵も気付いていない大人諸君、「お前の頭がパー」である。あまりにも馬鹿である。あまりにも鈍感である。自分の身に直接降り掛かってこないと分からない脳天気である。今直ぐ目覚め、何をすべきかを考えろ、直ぐに答が出る。答が出れば後は実行あるのみである。今直ぐ、出来る事から一つづつ始めよう。
 自分の家庭は愛に満ち満ちているか? 自信がなければ何かが足りないのだ。不足分は充足しなければならない。親族の家庭は愛に満ちているか?
 君の友は、君の友たちは皆愛に満ちているか? 不幸に喘(あえ)いではいないか? 不幸であれば、何故不幸なのか、その原因を突きとめ、幸福になる為に手助けをしてやらねばならない。麻雀をやっている場合ではない。仲間内で金の取り合いをして、限りある命を、時間を自分で縮めている場合ではない。
 刻一刻と破滅は近づいている。目覚めよ諸君! つづく。

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2008年5月 2日 (金)

vol.68 欲という目の曇りはホンモノを見つけられない

 自分の中にある欠点や厭な部分を持ってる人と出会うと、どんな気がするだろうか。自分とそっくりなので吐き気がする程その人に嫌悪感を抱くだろうか。自分と同じ欠点なので、妙に安心し理解し合い、仲良くなるだろうか。
 その人に嫌悪を感じるという事は、自分も人に不快や嫌悪の感を与えているのだから、と反省し、改める様にするのか。その人にも指摘し、共に改める様に努力するのか。いずれにしても嫌悪を感ずる人に出会ったら、向上・進歩・成長するチャンスである。決して逃げてはならない。逃げると永久に成長する事は出来ない。永久にホンモノにはなれない。
 ホンモノ、ホンモノ、ホンモノと、矢鱈ホンモノを探してる人がいるが、それは本人がニセモノだからである。そういう人に限ってホンモノに会ったら、そそくさと逃げ出して了う。ニセモノだからである。自分がニセモノである事を見破られるのが怖いから逃げ出すのである。逃げ出さないと生きて行けないからである。
 逃げなくともホンモノは初めから見抜いている。ホンモノだから、見抜かれているんだから、観念して本当のホンモノになろうと、ホンモノに教えを乞えば良いのだが、ニセモノはその絶好のチャンスを逃がし、自ら逃げ出して了う。勿体ない話である。
 ホンモノは打算が少ない。限りなく少ない。ニセモノは打算が多い。限りなく多い。ニセモノとホンモノが肩を並べれば、誰が見ても一目瞭然で違いが分かる。だからニセモノはホンモノと肩を並べたくないのである。
 ニセモノは主目的の利益追求を隠し、人の為人の為と善人ぶる詐欺師である。決して善人ではない。善を偽る偽善者である。
 ニセモノとホンモノを見分けるのは簡単だが、その人の目が曇っていたら見分けられない。欲という目の曇りは、ニセモノをホンモノと思い、ホンモノをニセモノと理解して了う。此処に詐欺が成立する。此処にニセモノが繁盛する理由がある。
 ホンモノになりたければ自我欲を削る事である。自我欲を削らずにホンモノになる事は出来ない。自我欲そのものがニセモノだからである。削りたくなければ諦めて、永久にニセモノでいれば良い。決してホンモノぶってはならない。そして、ニセモノ同士で鎬(しのぎ)を削り、地獄へ地獄へと落ちて行くのである。それが厭なら、食欲性欲快睡欲を必要以上に求めず、余分な物は持たず、人に夢中になる事から始めよう。人に夢中になる事を最大の、唯一の趣味としよう……  つづく。

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2008年4月30日 (水)

vol.67 幸福は今、手の中にある

 人生はドラマである。人生は感動である。感動のない人生は人間とは言えない。感動は人と人との触れ合いの中にある。そのコミュニケーションの中にある。
 物理の中にホンモノの感動はない。新築の家が建って嬉しいのは、感動ではない。その時だけの喜びである。住居に慣れると、もっと豪華な家が羨ましくなる。倒産の憂き目に遭うと、抵当に入れ、やがて失くして了う。
 事業に成功しても家庭を顧みないと妻も子も離れて了う。どんなに立派な家でも家族が憎しみ合っていたら、何の意味もない。
 荒屋(あばらや)で家族が犇(ひしめ)き合っていても、其処にコミュニケーションが有れば、温かい心が通じていれば、その家庭には何時も笑いがいっぱい、明るくて楽しい……幸福な家庭である。どんな豪邸よりも大邸宅である。
 物理の豊かさと、心の豊かさは必ずしも一致しない。物理の高さと人間の高さは必ずしも一致しない。否、寧ろ反比例する事の方が多い。一億円儲ければ二億円欲しくなる。二億円儲ければ五億円、五億儲ければ十億と、際限がない――何時も寒しい貧しい心である。安らぎのない不幸な人生である。
 人は誰しも幸福になりたいと思っている。幸福になろう、幸福になろうと不幸になっているのである。わざわざ不幸になっているのである。今ある現状を嘆き悲しんでいるのである。
 幸福は今、手の中にある事を知らなければならない。自分の欲と現実との差、そのギャップが不幸なのである。欲を小さくすればする程、そのギャップはなくなり、今直ぐにでも幸福になれる、今直ぐにである。
 生かされている事に感動し、歩ける事に感謝する。目が見える事に、耳が聴こえる事に、人と話が出来る事に、人の心に触れる事に、家族がいる事に、友がいる事に……生きている事に感謝する。それ以上何を求めると言うのか……。
 一人で生まれて来たんじゃない、一人で生きて来たんじゃない。何も求めなくても、今のままで幸福であるという事が分かれば、それ以上の出来事は全て喜びで、人の事も一生懸命考えて上げられる様になる。
 人を楽しくすれば自分も楽しくなる。人を喜ばせれば自分にも喜びがやって来る。その為には人が好きでなくてはならない。好き嫌いがある中は人間としてレベルが低い。自分に都合の良い人だけが好きだから、嫌いな人が生じるのである。その嫌いな部分は自分の中にある。 つづく。

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2008年2月 8日 (金)

vol.59 実行出来てこそ当り前

 至極当り前――当然の事が、実は、実に一番難しい事に気が付いてる人が、どれ程いるだろうか。当り前の事が簡単なのは頭脳丈だという事に気付いている人がどれ程いるだろうか。頭で直ぐ分かる、あれこれ謎解きの様に考えなくても直ぐ理解出来るから「簡単じゃないか」「当り前じゃないか」と、当り前を馬鹿にする人が多い。そういう人に限って当り前のどれ一つとして、出来ていないのである。そう、実行出来てこそ当り前なのである。
 実行出来ない当り前は無い。つまり、実行出来ない限り当り前であって当り前ではない、という事である。
「結婚したのだから妻を愛し続けなさい」と言われ「そんなの当り前じゃないか、あんたに言われる筋合はない」と、妻への愛を自信を以て喋る夫。そういう人に限って浮気をする。
 浮気は妻への裏切りである。何れ離婚となり、家庭家族喪失という大きな代償を払う事になる。極極、簡単な当り前を実行しなかった結果である。取り返しのつかない人生となる。
 世の夫諸君、決して驕ってはならない。愛する妻がいるから、金に代えられない、宝の子供がいるから、それが励みとなって働ける。生き甲斐が持てる。家族に感謝し、家族に感謝され、素晴らしい一日一日が過ごせる。決して驕ってはならない。何も偉い事ではない。極極当り前の事である。なのに当り前の事が出来ない人が多い。実に多い。そういう人は当り前の事を当り前だと馬鹿にする資格はない。
 馬鹿に馬鹿だと言う人と、馬鹿に馬鹿だと言われる人と、どちらが馬鹿か? ん? 兎に角、当り前を馬鹿にしてはいけないと言う事である。実行するのが一番難しいのも「当り前」であるという事だ。
 当り前に生きないと無理をする事になる。無理をすれば病に罹る。当り前に生きていれば病に罹らない。当り前に生きていれば人に騙されない。当り前に生きていれば人を騙す事もない。当り前に生きていれば心配事も悩み事もない。当り前とは自然の事である。
 当り前の事を当り前に生きる……その自然体が人に好かれ、愛される。
 キリキリカリカリしてる人間に、人は寄って来ない。川の流れの様にサラサラと、五月の薫風の様にソヨソヨと、たゆたう様に飄々と生きてゆければ、何と素晴らしい事か。当り前に生きる事の難しさ……だから素晴らしいのです。 つづく。

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2008年1月31日 (木)

vol.57 幸福の起源は家庭にある

  幸福の起源は家庭にある。其処に生活する家族にある。
 不幸の起源も家庭にある。其処で生活する家族にある。
 家庭、家族次第で人は幸福になり不幸になる。ならば、幸福になった方が良いに決まっているのに不幸な家庭が多い。何故不幸な家庭を作って了うのか……。
 壊れる家庭の大きな原因は夫にある。夫は大黒柱。此の大黒柱が弱いと家は崩れる。多少の弱さだと妻や子等の協力で支える事も出来るが、弱過ぎるとそれも叶わず壊れて了う。
 強くて逞しい、立派な大黒柱であれば、その家庭は笑い声の絶えない素晴らしい家庭である。だが世間、強くて逞しく甲斐性のある夫ばかりではない。そんな素晴らしい夫ばかりであったら、世の中犯罪は無くなるだろう。一家の主たる夫の不甲斐なさが家族の信頼を失くし、家庭を崩し、やがて世間を壊して了うのである。
 夫の責任は重大だが、弱ければ致し方ない。その弱い部分を妻が補わなければならない。妻が補い、二人合わせて一人前となる。内助の功である。それでも足りなければ子供達の協力が得られる。一生懸命家族の為に頑張っている父母の姿を見て、協力しない子供はいない。一家、家族一丸となって造り上げて行く、素晴らしい家庭である。大黒柱は居なくても良い。全員で支え合う、逞しい愛の柱に叶うものはない。絶対壊れない、素晴らしい家庭が其処にある。
 夫にとって一番大切な妻、妻なくして家庭は創れないのだから、妻なくして家族は、子供は出来ないのだから、何と言っても一番大事な妻……。
 その妻一人をも幸福に出来ない奴は人間失格である。情の薄い、愛の何たるかも知らないエゴイズムである。そんな人間に何等かの、人も羨む才能が有ったとしても、又どんなにその才能を発揮したとしても、人々を幸福に導くものではない。導けるものではない。根底に愛がないからである。
 愛の原動力を持たない才能は、魂の入っていない仏像と同じである。そんな人間が一国の主、首相や大統領になったら大変である。忽ちにして国は混乱し、やがては戦争に突入する。たった一人の妻、たった一つの家庭家族も幸福に出来ない人間に、国を護る事は勿論出来ない。
 国民の飢え等意にも介さない。貧富の差はどんどん開き、自殺者も増え続ける。家庭家族を大切にしない人間を主にしてはならない。長にしてはならない。指導者にしてはならない。責任は我々一人一人にある。  つづく。

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2008年1月25日 (金)

vol.55 地球全体が我々の故郷である

 人は他の人(魂)にはなれないが、肉体(道具)は色んな肉体を借りて修業する事が出来る。同じ肉体は一つもないのだから当然である。男になり、女になり、日本人になりアメリカ人になりアフリカ人になりロシア人になりと、有りと有らゆる地に住み、世界の人となる。全ての条件、全ての人種を経験し、それぞれの魂は高次元へと登り詰めて行くのである。
 今、今世に居る我々は殆ど同じレベル、階段で言えば一段半段の差もない、五十歩百歩の集まりである。一寸偉そうな事を言えるからと、威張れる程のものでもない。次元が未だ未だ低いから、愛が浅いから、我々は此の世に修業に来ているのである。
 我々は嘗(かっ)ては黒人であり、何れは黒人である。我々は嘗ては男であり、何れは女である。
 我々人間は誰しも世界の隅々まで、何れは故郷、古里となる。地球全体が地球国であり、一つのもの一つの故郷である。
 その故郷を破壊してはならない、自殺行為である。他国に侵略し、人を傷付けてはならない。我々の地球は一つであり、他国も他民族もない、皆家族なのである。
 家族を殺してはならない、故郷を壊してはならない、自殺行為である。今、直ちに止めないと地球は、我々の故郷は破滅する。確実に壊滅する。
 今、我々の地球は凄い勢いで破滅に向かっている。自然環境の破壊は言うに及ばず、一番恐ろしいのは人心の破壊である。自分の事しか考えない、地域の事しか考えない、自分の国の事しか考えない輩が急増している。自我地獄である。
 自我地獄に陥った者は、自らの家庭をも破壊する。気に入らなければ我が親でも、我が兄弟でも、妻でも夫でも……。国と国との戦争より非道い。
 我が国我が民族我が家庭を守る為に、嘗ては戦争があった。今は、戦争をする価値もない。
 先進国と言われる国の人達が、文明と逆行してどんどん野獣、禽獣化していく。
 今こそ、ホンモノの愛に目覚めなければならない。ホンモノとは愛の深い、大我大欲に生きる人の事である。ホンモノとホンモノが集まり、愛の実践を行う時、見る見る地球は洗い浄められ――奇跡は実現する。 つづく。

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2007年12月13日 (木)

vol.51 愛と幸福は無償のものである

 幸福を追求すればする程、幸福は逃げていく。幸福になりたいと思えば思う程幸福は遠退いていく。それは自我欲の極致だからである。それ程大きな欲張りなのである。幸福は追求するものでも、欲しがるものでもない。幸福は物理の中にはない。物理の追求、欲求の中に、例えそれが叶おうとも幸福とは無縁のものである。
 ホントの幸福には何も無い。自我を捨て果てしなく無に近い所に至福の境地がある。自我を捨て、幸福になろうと欲する事を止める所から、ホントの幸福の領域に入るのである。実に次元の高い貴い、素晴らしい人間の誕生である。
 静かな気持で、澄んだ眼で慈しみの心を以て人々を見てみよう。人々の動きを観てみよう。面白い程人の心が見えてくる。怖ろしい程人の真実が見えてくる。人の内面の良さも悪さも的確に見えてくる。人を見る判断に狂いが生じなくなる。違いの分かる、極めて正確な人間になれる。人に対して迷いは生じなくなる。
 扨、では其処からどうするか、だ。縁有って宿命として授かった出会いである。どの人もどの人も皆伸ばして上げなければならない。聴く耳を持たない人、又は聞く状況にない人間は例外である。そういう人に費やす時間は無い。今、助けなければならない人がいる。その人に全力を投じなければならない。
 愛と幸福は無償のものである。次元が高くなればなる程、無償に近づく。
 ホントの愛と幸福は限りなく無償に近い。そのエネルギーの源は何か?
 素晴らしいホンモノの愛と幸福の原動力は一体何なのか……。その原動力が見つからず、人は悩むのである。色んな本を読み、色んな教えを乞い右往左往するが、一向に見つからない。大体、教えを説いている人間自体、殆ど解っていない。解っていない人間から教わっても、何を教わっているのか判る訳がない。愛、愛、幸福、幸福と綺麗事で言葉が乱発されている丈で、何が愛で何が幸福かという、その実体すら分かっていない人が多い。実体が分かっても、そのエネルギー、その原動力が何なのかが分からなければ、旨い饅頭を見ても手を出せないのと同じである。絵に画いた饅頭である。扨、その素晴らしいエネルギー、原動力とは?   つづく。

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2007年10月15日 (月)

vol.45 一番の敵は己の中にある

 内なる獣とは何であろうか。外なる獣との闘いは楽である。自分が正義であるが故に、非常に気持良く生甲斐を持って闘える。世間の賛同も応援も得られる。だが、内なる獣との闘いは難しい。何といっても相手が自分である。どうしても甘やかしたくなる。身内贔屓である。獣といえども自分の裡に有るものである。嫌悪感に苛まれていても我が身内だ、その制裁には時間が費かる。ついつい一日延ばしになる。一日延ばしをすればする程、嫌悪感も募る。そして愈々裁断の時がやって来る。その時は完膚無き迄、やっつけなければならない。でないと内なる獣は、又ムクムクと勢力を持ち直して来る。
 獣を撲滅するには鬼になるしかない。心を鬼にして身内なる獣を退治しなければならない。言うは易し行うは難し、これが仲々一朝一夕にはいかない。厄介なものである。一番の敵は己にあるのである。
 大体人間はある程度生きて来ると、大した事もないのに自分を壊すのを恐れる。何か築いて来た様な気でいるからだ。錯覚である。
 本当に築かれた本物の城は壊れない。何があっても微動だにしない。
 積りだから、錯覚だから、未だ途上だから、一寸した事でも脆く、崩れる。何も築いてはいなかった事に気付かねばならない。
 政治のトップの座に居ても、たった一言の失言で失墜する。大体、失言という言葉が可笑しい。失言なんて言葉は、本来心にも無い事を言って了う事だが、人は心にも無い事は言わない。ずーっと心の中に仕舞って置いた言葉が、その本音が自制心を欠いた時に飛び出して来るのだ。油断して本性を出した丈である。元々そういう人間なのだ。化けの皮が剥がれた瞬間が失言という形で表われた丈である。
 人は何か築いた積りでも大したものではない。その城は泥かも知れない。ガラスかも知れない。だから、安心して解体すれば良い。未練たらたらの気持を捨てて、潔くぶっ壊せば良い。それが出来れば、次にはホンモノの城が建つ。
 壊す事の勇気が持てれば、内なる獣と闘うのはいとも簡単である。内なる獣――我欲なんてものは解体作業の中で脆くも消滅して了うものである。 
 人に良く思われ様とする自尊心は、自己解体に依って消え、人に勝とうとする競争心は、その元にある自尊心の消滅に依って必要性が消える。名誉欲、征服欲という、大それた獣欲も、此の自己解体という作業の中で次々と滅びてゆく。そして人々の中に本当の平和が生まれて来るのである。     つづく。

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