2008年5月14日 (水)

vol.71 感謝の原点――ふるさと

 人は幸福過ぎると、人の不幸が目に入らず、自己の外形の美や命を長らえる事許りに熱中する様になる。欲張りなのである。醜い欲張りである。
 人は一人では生きて行けない、という事を何時も肝に銘じていなければならない。其処に感謝の原点がある。生きている、生きて行く原点、生命のふるさとを歌にしたのを載せておこう

         ふるさと

(クラウンレコード)東 隆明作詞 ふるかわただよし作曲

 人は誰しも 母の胸から飛び立って
 広い世界に 巣立ちゆく
 ゆく先々に 壁あり 山あり 谷がある
 雨降り 風吹き 嵐来る
 そんな時 母の匂いを想い出し
 そんな時 母のぬくもり想い出し
 深い愛に 報わんと
 涙ながらに ムチを打つ
 
 人は誰しも 父の生き様 見て育ち
 広い世界に 羽ばたき渡る
 世の大海に 小波 さざ波 しけありて
 乗り出し こぎ出し 舵を取る
 そんな時 父の姿を想い出し
 そんな時 父の厳しさ思い出し
 幼き頃に 享けた愛
 感謝ながらに 船をこぐ

 愛は与えるもので 勝つものじゃない
 愛は帰ってくるもので 奪うものじゃない
 ふるさとは人の心にあり 永遠のもの
 ふるさとは生きてる証 永遠にあり
 永遠にあり   

        
            つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月29日 (火)

□共存共生への道

vol.56 思いは地獄、想いは天国

 人の思いには二通りある。自分への思いと人への思いである。自分への思いが人への思いより勝れば勝る程、つまらない人間になる。爪に火を点して金ばかり貯める人は地獄である。友達がいない。いないというより作らない。友達を作れば付合いをしなければならない。付合いをすれば必ず経費が費かる。勿体ない。使わない金を貯め、通帳を眺めてニヤニヤしてる姿を想像して見よう。正しく地獄絵図である。
 人と付合わなければ何も成長しない。人と付合わなければホンモノの感動は生まれない。通帳の数字が増えるのに感動しているのは、余りにも貧しい。数字が増えれば増える程、心の貧しさも増える。数字の豊かさは心の貧しさを表しているのである。
 金持を見て羨むなかれ、金を持っていない貴方より遥かに貧乏なのである。
 死ぬ迄に気が付けば助かる。遅過ぎると云う事はない。気が付かなければ折角貯めた金を大病の為に病院に注ぎ込む事になる。部下に裏切られ、持ち逃げされる事になる。子供の不祥事の尻拭いに使う事になる。不慮の事故で死に使えなくなる。恨まれて殺され、使えなくなる。どれもこれも貧乏人には殆どやって来ない不幸である。
 金は貯める為にあるのではない。金は使う為にあるのである。それも自分の為より人の為に使えれば最高である。そうすれば又金が入って来る。又使う、と良い循環が繰り返され、人に愛され充実した生活が出来るから病気もしない。マイナーな出費は一つもしなくて済む。生きた、活きたお金を使える、天国の人生である。
 人の思いには二通りある。自分への思いは「思い」と書く。田は自分、土地財産を意味し、自分、金への心が中心の状態である。やがて地獄に落ちる。
 人への思いは「想い」と書き、相手への思いやり、相手の利益を望む心が中心の状態である。素晴らしい人生を送る事が出来る。天国に、幸福の頂点に登り詰める事が出来る。其処には感激がある。感動がある。
 感激の数が多い程、感動の経験が多い人程、その素晴らしさが光る。燦燦と降り注ぐ太陽の様に光り輝き、人々に幸福を与える。同じ生まれて来たのなら、そんな人間を目指す今日この頃で生きましょう。 つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月23日 (水)

vol.53 徳を積むには人に逢わねばならない

 大我大愛――その姿、その生き方そのものがホンモノの幸福であり、ホンモノの愛である。人間の頂点である。

 不幸な人は、皆例外なく自ら不幸になっている。
 自ら不幸を呼び込み、不幸を愚痴り、不幸を嘆く。
 不幸者は一様に不幸を人の所為にする。世間の所為にする。天の所為にする。自ら呼び込んでいる事を知っていても、気付いていなくても人の所為にする。そして不幸から這い出せなくなり、地獄を彷徨(さまよ)って朽ち果てる。勿体ない人生である。勿体ないという事も知らず、気付かず死して行く。そして来世に誕生する時、其処から始まる。例外なく其処から出発する。生まれついての不幸からスタートするのである。
 生まれた境遇から始まり、育つ環境も酷く、次から次と悪い事ばかりが降りかかり「何故自分ばかりがこんな目に遭うのか!」と嘆き「生きていても仕様がない、いっそ死んで了いたい、死んでやろう」と自暴自棄になる人がいる。
 私が何をしたというのか、何も悪い事はしてないじゃないか――している。
 天は、神は居ないんじゃないか――居る。
 居るとすれば実に不平等ではないか――平等です。
 ならば、どうして私を助けて呉れないのか――
 天は自ら助くる者を助く。自ら助かるには、どうすれば良いのか。
 何をしても上手くいかない――小我では助かる筈もない。自分の事でも大変なのに人の事所ではない、という考えでは永久に助からない。先ず他人事の為に働く、一生懸命働く。さすれば、それが徳となり、徳を積む事に依って、それがやがて得となって還って来る。望まなくても間違いなく還って来る。大我大欲による得は大きな財産となる。
 損して得とれ。何事も、良きも悪しきも、そのまま還って来る。
 徳を積むには人に逢わねばならない。人に接し、コミュニケーションをとる所から始めねばならない。家に引っ込んでいては何も進まない。
 徒に時が過ぎていく。限りある今生での命、明日は無いものと思い、今日、今、書を捨てて町に出よう。出会いを求めて町に出よう。  つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月10日 (水)

vol.43 自然七訓は血流を良くする

 当り前の事を言うと「何だ、当り前じゃないか」と馬鹿にした様に鼻を白ませて言う人がいる。それは、その人が莫迦なのである。当り前の事が全然出来ていない人に限って、当り前を馬鹿にする。当り前がどれ程難しい事であるかが、全く判っていないのである。小難しい理屈を捏ねて「俺は頭が良いんだ」と思い込んでいる人には教えて上げよう、忠告して上げよう。
「貴方の言ってる事は生活実態のない、実行の伴わない唯の屁理屈である」と。
 当り前の事とは自然の事である。その自然から外れた、アブノーマルな言動は、変わっていて、興味を引くものであるかも知れないが、破壊の精神である。いずれ、破壊、破滅へと向かう。間違いない。
 当り前の哲理は人間の基本である。基本であり、それを修得する事はその人を素晴らしい人間へと創り上げていく。当り前の生き方は基本であり、その完成は究極の到達点でもある。俗に言う悟りの域なのである。
 私の著した本の中に自然七訓というのがある。此処で紹介して置こう。

       自然(じねん)七訓
一、自然(じねん)とは自然(自念)の事である
二、自然とは当然(あたりまえ)の事である
三、自然とは自らを然(しか)りとする事である
四、自然とは己れを捨てて人の為に念ずる事である
五、自然とは今日を生き明日死する事である
六、自然とは大我大欲を以て生きる事である
七、自然とは全宇宙の摂理に融け込む事である
  (詳しくは(株)企画出版天恵堂版『ホント八百』参照)

 この七訓を朝、顔を洗う時洗面台に貼って置いて唱えて下さい。
 歯を磨き顔を洗い終ったら、先ず洗面鏡に向かって、にっこり笑い、七訓を朗々と楽しく唱え、唱え終ったらもう一度鏡に向かって、にっこり笑って見よう。笑顔が変化している筈だ。血流が良くなり、頭がスッキリして来る。スッキリして来なければ、もう一度唱和、笑顔。
 これで万全だ。今日も一日楽しく頑張ろう! つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 4日 (木)

vol.41 厚化粧になればなる程、肚も黒い

 人間の本来の姿は裸である。
 人間の本当の価値は裸の姿に表われる。

 自慢話をする人は愛せないが肩書きに頼る人も底が知れて哀れである。
 自分自身に自慢出来る材料が無い人は、肩書きを持った人の名前を持ち出して来る。それによって自分もその人に近い人間だと思わせようとする。喋っている内容の八割が有名人や成功している財界人の事であれば気を付けろ。喋っている事の殆どが自慢と肩書きのミックスであれば、魂胆は判然(はっきり)として来る。それを聞いている貴方は狙われている。その素晴らしい話に埋(の)めり込むと、貴方の財産は失くなる。間違いない。
 然し、気を付けていても引っ掛かる人は引っ掛かる。その人に欲がある限り、引っ掛かる。欲が深ければ深い程引っ掛かる。欲の深い分だけ被害も大きい。
 欲の少ない人から見れば、何故あんな見え見えの、馬鹿みたいな詐欺に引っ掛かるのだろう、と不思議に思えるものである。
 人間の真贋を見分けるには、その欲を取り外せば簡単な事だが、それが一番難しい。己の欲は、募らせる事は簡単だが、削る事はなかなか難しい。削るには修業が必要だ。ならば、簡単に欺されても良いのか。欺されて月謝を払うのも良いが、出来れば欺されたくないと思う貴方、“人間の本当の価値は裸の姿である”という事を取り敢えず頭に入れて、真贋を見分けて見よう。意外と簡単に見分ける事が出来る。
 ○服装が派手ではないか。
 ○これ見よがしに装飾品をチラつかせてはいないか。
 ○矢鱈、理屈っぽく難しい言葉を使ってはいないか。
 服や飾りが少なく裸に近い程、詐欺度は低い。言葉に自慢や肩書きが少なければ少ない程詐欺度は低い。化粧も素面に近い程、心も清い。厚化粧になればなる程、肚も黒い。
 といった具合に、この程度のチェックに引っ掛かる奴は、間違いなく貴方を欺そうとしているか、自分の愚かさをカバーしようと必死に虚飾に勤しんでいる憐れな人間である。扨、貴方ならどうする? 君子危うきに近付くな、と無視するか。裸の姿に戻れ、と諭すか。その前に自分が裸にならにやいかんか……。つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 3日 (水)

vol.40 自慢話に神様はいない

“自分中心に喋る”のは自信がなさ過ぎる人と、もう一つ、自信があり過ぎる人に多く見られる。喋る事の八割以上が自己表示の、自信のない人には閉口するが、自信過剰の人の話はもっと酷い。ヘドが出る思いを経験した人も多いだろう。結構あちこちにそういう人が居る。自分もそうならない様に気を付けねば……。
 この自信過剰の人は、放って置けば、そのまま成長が止まり、やがて人間として腐って了う。駄目になりたくなかったら自慢をしない事だ。
 自慢話をする人には、少なくとも好感は持てない。所が、好感を持つ人がいる。持てる人がいる。
 好感を持てる人は、その人と同じ道を目指す人であり、とても叶わぬと羨望の目で見ている人である。それならば分かる。そういう人には自慢話は通用する。喜ばれる。
 自慢話の根っこは自己満足である。「あなたは素晴らしいですね」「凄いですね」と言われて、言わせて、自分に大満悦するのである。御本人は気が付かないが、一寸引いて、その人を見ると何と小っぽけな、下らない人間かが分かる。
 腕力の弱い人間が強い人間に憧れると、強い人間は気を良くして、自慢話をする。武勇伝が始まる。「あの時は何人やっつけた」「大男をあっという間に倒した」と、手柄話が佳境に入ると、益々興奮し憧れからヒーローへと登り詰める。
 一生懸命働けど、働けど生活は楽にならず、何時も金に困っている人は、短期間に大金持になった人に憧れると、大金持は気を良くして自慢話をする。頭の良さをひけらかす。その出世談に、憧れから信奉となり、神格化されていく。
 金儲けに神様はいない。経営に神様は存在しない。何故なら、儲ける者がいれば、必ず一方で損をする者がいるからである。平等なる神は、どちらにも味方しない。金儲けの神頼みは、無駄の骨頂である事を知らねばならない。
 腕力や暴力を嫌う人は、武勇伝には何の興味も示さない。幾ら、俺は強いんだと誇示しても軽蔑される丈である。
 物欲金欲の少ない人に、幾ら俺は大金持ちだと自慢しても哀れまれる丈である。
 自慢話は、本当の価値を知らない人にしか通用しない。借金だらけで四苦八苦している人を集め、私は一億円持っていると言うから威張れる。が、十億円持っている人の所へ行って、一億円持ってると威張れはしまい。
 自慢とは弱者や貧者に勇気を与える所か、馬鹿にして優越感に浸り、その人達を益々貧者に、不幸にして行くものなのである。注意して上げよう……つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月14日 (金)

vol.39 自分中心に喋るのは自信がないから

 人を大まかに見分けるのに、その人が自分中心に喋っているか否か、で判断するという、簡単な方法がある。
 内容はどうであれ、話の八割以上が自分の事ばかりの人はレベルが低い。成長しない。「私はこう思うの」「私はこうしたの、ああしたの」「私はこういう人なの」と自己表示であり、自己宣伝であり、自己営業をする人は、その行為がその思いが逆効果であるという事に気が付いていないから始末が悪い。文句を言うと「人に良く思われようとして何処が悪いの」と却って叱られる。何処から教えたら良いのか……本当は幼い頃から親が教えていなければならない事である。という事は、その親も屹度そうなのだろう。
 子を見れば親が、親を見れば子が分かるとは良く言ったものだ。
 偶(たま)に例外もある。鳶が鷹を生む訳はないが、鳶が鷹を生んだら吃驚する。「ホントにあの親の子供かい?」と不思議になる位、親子の差がある場合は例外である。大抵は子を見りゃ親が分かる。
 扨、そういう自己中心の人に縁あって出会って了ったら、関りたくないと逃げ出すか、肚の中で軽蔑して、表面は適当にあしらって置く。という対処をしている人は、人間が悪い。折角出会ったのだから、その人の欠点を直して上げようと努力しなければならない。その前に、何故自己中心に喋るのか、という原因を知っていなければ直して上げる事も出来ない。
 人が自分中心にモノを喋るのは、自分に自信がないからである。自分が不安で不安で仕様がないからである。必要以上に自己過小しているのである。だから大きく見て貰おうと、好意を持って貰おうと、時には誇張もして宣伝するのである。その自分の姿が、人にどう映っているのか全然分かっていない。分かっていないから改められないのである。誰も教えて呉れないからである。逆恨みを怖れて指摘を避ける人は、その人自体成長しない。その人も大して差がない証拠である。
 自分が安定してる人、日々充実感を持って生きている人は自己宣伝をしない。する必要がない。心に余裕があるから、じっくり人の話を聞いて上げられる。だから適切な答も出して上げられる。自己中心の人に出会ったら指摘して上げよう。愛情を以て助言して上げよう。暫くは近寄らないかも知れないが、何れは分かってくれる。   つづく。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年8月30日 (木)

vol.35 人生はドラマである

 人生は航海であり、ドラマである。シナリオのないドラマである。
 シナリオは、本人が創る。その局面、その局面で真剣に懸命に創り、それを実践して行く様が、ドラマである。

 人生は航海であり、ドラマである
 ドラマは感動である
 感動は――愛である

 人は、どんなに予期せぬ事が我が身に起きようと、驚く事はない。それは過去に自分の取った行動の結果であるか、天が新しい試練として与えて呉れた修業なのである。 
 人は、何が起きても驚く事は何もない。
 予期せぬが故に一瞬のショックは起きても、直ぐ冷静になって対応出来るようにならねばならぬ。
 行動の結果と新しい試練という真理が分かれば、どのような事態にも対応出来るだろう。
 人生は素晴らしい。人を想う、愛の深い人の行動にはドラマが生まれる。人に勇気や希望を湧かせる原動力――感動を与える事が出来るからだ。その人の行動が愛であり、感動であり、ドラマなのだ。

  CHANCE 第一章 「航海」の終りに

    身心を改め直し
    世を浄め
    人の輪広めて  
    愛を深めん

  
 時の流れに翻弄され、長きにおいて引き裂かれし家族、一日も早く再会叶うように創った悲願歌であり、応援歌である「愛ある故に」を掲載して、第ニ章に移りたいと思う。

    愛ある故に
  作詞東隆明 作曲藤山一男 編曲古川忠義

  春を待つ 心の絆 誰か知る
  日が沈みても 心沈まぬ
  夏が来て 心枯れても 誰か知る
  日が昇りても 心昇りぬ
  秋が来て 心乱れても 誰か知る
  日が長くても 心短し
  冬が来て 心淋しくも 誰か知る
  明日在る事を 又 生きる日を

  子を想う親の心 誰も知る
  愛の深さには 海も叶わじ
  旅に出て 疲れ果てたら 誰も想う
  馳せる心は 故郷の山河
  明日は来ぬ 今日を限りに愛に生く
  短き命 又 逢う日まで

  一人では生まれて来ない
  一人では生きてゆけない
  愛ある故に 人は輝く
  一人では生まれて来ない
  一人では生きてゆけない
  愛ある故に 人は輝く
  愛ある故に 人は輝く
 
  
    拉致被害者と御家族の心痛……
    悲憤と万感の愛を込めて――再会を願う

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月29日 (水)

vol.34 迫り来る戦争にストップを

 人生は航海である。後悔ではない。寿命という船に乗って、次の港、来世に向かい航海という修業の旅に出るのである。どんな旅になるか。それは本人次第である。
 幸福の荷を運ぶ、天使の航海なのか、不幸の荷を運ぶ悪魔の航海なのか。そして、只只迷い、漂流して海の藻屑となる航海なのか……色んな航海がある。人、それぞれの航海がある。それは、人それぞれの今生での寿命であり、修業である。
 人それぞれの寿命であり修業であるが、今生に遣わされた限り、進歩して来世に向かわなければならない、人それぞれの進歩を遂げねばならない。
 素的な人とは、どんな人であろうか。自画自讃は素的とは言わない。自己中心の人は素的とは言わない。巨万の富を得ていても素的とは言わない、それを人の為に使わない限り、素的とは言わない。
 
 何事にも 何人にも
     想いは深く  考え貴(たか)く
     視野広くして  情に篤し

 何時も人の幸福を願い、世界の平和に貢献している人の姿である。
 居乍らにして世界を観、憂い喜び怒り悲しみ、人々の為に念ずる事の出来る素的な人、そんな素的な人にならねばならぬ。その為に我々は現世に生まれて来たのだ。
 素的な人が集まって愛のエネルギーを増幅すれば、次第にその数が増え、強大な力となって、悪魔を追い払う事が出来るかも知れない。でなければ地球は破滅して了う。
 天災と人災によって地球は壊滅する。戦争は人災である。産業による環境汚染よりも、戦争の方が最たる環境破壊である。
 それは自然破壊であり、自分達で創った建造物をも消し去り、尊い人命をも奪って了う。其処へ天災が戒めの如く襲って来る。人災の上に覆い被さる様に襲って来る。
 素的にならなければ、そして素的な人を探さなければ……
 急がねばならない。素的な人と素的な人が集まって、大きなエネルギーとなって悪魔と戦わねばならない。迫り来る戦争にストップを掛けねば……つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月28日 (火)

vol.33 健康だからと言って長生きするとは限らない

 世の中、一分一秒先に何が起きるか分からない。起きて了えば、善きも悪しきも当然の結果であるが、扨、それを読む事が出来ない。出来ないから、人はその都度ショックを受け、一喜一憂する。
 人は病に罹るまで病とは縁の無いものだと思っている。病院の前を通っても、異様な建物にしか見えない。まして、中に入っている人間は自分とは縁遠い、別世界の人達だと思っている。それが、或る日突然その建物と縁が出来る。其処の住人になったりもする。想像もしなかった事態になる。別世界から、非常に近しい無くてはならない建物となる。
 人は、病院に通ったり住人になったりしてる人より、毎日元気に動き回ったりしてる人の方が、長生き出来ると思っている。健康な人は病に罹っている人より長生きすると思い込んでいる。はてさて、そうだろうか。そうとは限らない。
 毎日、TVや新聞を賑わしている死亡記事は、当事者にとっては全く予測出来ない事態であろう。海で泳いでいて溺れ死ぬ。山に登って遭難し力尽きて死ぬ。運転をしていて激突死。火事で逃げ遅れ焼死。身に憶えが有ろうが無かろうが、銃器の手に掛かり死亡。台風、地震等による建物欠壊被害死。飛行機墜落、船の沈没による事故、遭難死……
 毎日、TVや新聞を賑わしている死亡報道。天災人災に関わらず、今日、そのニュースに報じられている人達は、まさか自分が今日死ぬとは思っていなかった人達である。毎日ニュースで見聞きして、明日は我が身と覚悟をし、遊びを楽しんだり運転をしている人は少ない。それが出来る人は、そんな死に方はしない。何時も他人事でニュースを見ているから、そういう不慮の事故に遇うのである。自分丈は大丈夫と思っている人達が、毎日死亡記事となっている。
 病院に通ったり入院している人達は、病弱が故に寿命は近いかも知れないが、今日、突然死する人は少ない。事故、遭難、殺害に遇う確率は極めて少ない。建物が丈夫故、火災、地震で死ぬ確率も低い。健康だからと言って、長生きするとは限らない。否、健康が故に早死する人が多い。命を軽視している人は、その根性の通り早く死ぬ。病院のベットで寝たきりの人から見れば、実に勿体ない話である。折角の健康な身体を粗末に扱うと、そういう結果になるという事を人は肝に銘じて置かなければならない。そして、限り有る命を、健康であろうがなかろうが、今日生かされている事に感謝して、精一杯生きなければならない。
 今日一日を大事に生きなければならない。明日は分からないのだから。つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月27日 (月)

vol.32 自己満足の間は愛とは言わない

 人は皆、平和を願っている。平和を願わない人はいない、と誰もが思っている。と、貴方も思っているだろうか……。それは、誰もが平和を願っていると思いたい、そうあらねばならぬという願望であり、平和への憧れである。実に切ない願望である。何故なら、戦争は今も、これから後もずーっと続くからである。
 何故、その様な予言めいた事が言えるのか――それは、現実を見れば一目瞭然である。これから先に起きる事を予め断言する事を、“予言”と言う。だが、一分一秒先の事でも予言(断言)する奴はインチキである。人心を惑わす悪魔である。ならば私はペテン師か、悪魔か。何故私は予言めいた事を言うのか――。
 私の言っているのは予言ではない。予言めいていても予言ではない。
 私が言っているのは、予測であり予想である。予言と予想は断言と想像であり、全然違う。
 世界の現状を見てみると、武器と武器を以て殺し合いをしている国と国、睨み合い乍ら一触即発の国と国、孤立して悪魔の凶器をチラつかせ乍ら駆引きをしている国、国内に於いて治安が乱れ、殺人が日常茶飯事の如く多発している国、家庭が崩壊し、家族間で殺し合っている国……。一目瞭然である。この世界の現状を見て、予言者等というインチキに予言して貰わなくても、誰でも予測出来る。予想出来る。戦争が終らない事を、平和が遠い事を。
 今、一番大事なのは己自身である。貴方自身である。自己愛、自分を大切にする自己保身が強い間は誰も救えない。救える訳がない。平和はやって来ない。来る訳もない。
 災害で避難している人達の姿をTVで見乍ら、喉にも支えず食事が出来る神経。自分に降り懸らない火の粉、対岸の火事には心も痛まない薄情なる人間、そういう人が多い中は平和はやって来ない。やって来る筈がない。
 人は愛を深め、より次元の高い人格を形成する為に、此の世に生まれて来たのである。人の災難を見た時、放って置けないだろう。他人ではない、人類皆兄弟なのだ。何とかしてやりたいと思うだろう。何等かの痛くもない金を寄付して「ああ、良い事をした」と自己満足をし、その問題は解決、チャンチャン!という次元からもっと深くなって、遊興費を削り、食事の贅沢を削り、被災地に駆け付け情況を良く見て、有効にお金を使わなくてはならない。それが愛である。それが少し進歩したホントの愛である。自己満足の間は愛とは言わない。人の災害を我が事とし、心を痛め献身的に尽す姿……それがホントの愛である。  つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)